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【企画参加】渡せなかった交換日記



実家の近くには7階建の
マンションがありました。


1階につき5号室まである
そのマンションには
私と同い年の女の子が3人
住んでいました。


2階にあみちゃん、
4階にりっちゃん、
7階にまゆちゃんです。

(登場人物は全て仮名です)


幼稚園の頃
2階のあみちゃんは毎日
私の家に遊びの誘いに来て、
2人で、または他の友だち達と混じって
17時ごろまで
ずっと遊んでいました。


あみちゃんは姉御肌で
遊びは何でも上手でした。
私が補助輪のない自転車に
乗れるようになったのは、
あみちゃんが根気よく
教えてくれたおかげです。


私は弱虫で怖がりで
自転車の練習も
逃げてばかりいたのですが、
そんな私が何とか
乗れるように
何度も付き合ってくれました。
しかも自発的に。
私が逃げているのに。
今思っても感謝の気持ちで
いっぱいです。


小学生になると
1年生、2年生では
4階のりっちゃんと同じクラスに
なりました。
りっちゃんはお洒落で
女の子らしく、
悪口を言わない子でした。
私はりっちゃんと
よく遊ぶようになりました。


当時私は
無口で面白みのない子でした。
性格も年よりずっと幼く
他の子より道理や礼節が
分かっていないところも
たくさんありました。



一緒にいても
楽しくなかったんじゃないかな。
でも嫌な顔一つせず
遊んでくれました。



3年生からは
7階のまゆちゃんと
仲良くなりました。
まゆちゃんは
誰にでも思ったことを
包み隠さず言う、
頭の良いリーダー格の子でした。
将来は弁護士になりたい、と
いつも言っていました。



バイオリンを習っていて
スイミングは今思うと
プロ養成コースに
行っていたのかな。
髪が塩素で茶色くなっていて
それがとてもきれいでした。



まゆちゃんは三姉妹の次女、
私は三姉妹の末っ子だったこともあり
私の次姉のような
はっきりした性格で
とても気が合いました。



まゆちゃんは
ことあるごとに
私をどれだけ好きか
熱く語ってくれて、
私はツンデレなので
しれっと聞き流していましたが
内心はとても嬉しかったです。



私たちは3年生から
交換日記を始めました。
最初は日本語で、
そのうちローマ字で(日本語で)
ずっと続けていました。



ところでまゆちゃんの
お姉さんのりなさんは
5歳上だったと思いますが、
私は何故か
幼稚園の頃からひどく
嫌われていました。



幼稚園の時、
まゆちゃんの家で
オレンジジュースを
頂きました。



私はまゆちゃんに
「ぶどうの方が好きなんだけど
 オレンジもいいよね」と言ったら、

「ぶどうがいいなら
 自分で作れよ‼︎」と
りなさんに酷く怒鳴られました。



それが物心ついて
最初のりなさんの記憶です。



怒りやすい人なのかな、
と思って観察していたら
私以外のまゆちゃんの友だちには
とても優しいのです。



でも、私には
会うたびに、
会ったその瞬間から
酷い目つきで私を
睨み続けました。



私はそれで
ジュースの件で
ひどいことを言ったから
嫌われているんだ、と
長年思っていました。



りなさんの私嫌いは
私が小学校6年の時まで
続きました。
何かした覚えを
必死で何度も探しましたが、
見つかりません。



それなのに、
近所で会うたびに
恐ろしい形相で
睨まれるのです。



私は、私の長姉が
気の強く、ときどき
攻撃的なことをする人だったので、
りなさんに何か
小学生の頃にしたのかな、
それで私に復讐しているのかな、
姉たちは登校班が一緒だったし。
なんて酷い被害妄想まで
持っていました。



とにかく嫌われる理由が
全く思いつかないのに、
嫌われるほど一緒に
いたこともないのに、
ものすごく嫌われ続けたのです。



りなさんは
私の名前は知らないようでした。
それで、まゆちゃんがお姉さんに
私のことを話題によくするので


「みおいちちゃんに会ってみたい」と

言っていたようです。



ある時、偶然
まゆちゃんとりなさんに
近所で会いました。


小学6年生だったと
思います。


まゆちゃんが言いました。


「お姉ちゃん、ほら
 みおいちちゃんだよ」



その途端、りなさんは
やっぱり酷い形相で私を睨み
一言も話をせずに
去ってしまいました。




同じく6年生の時、
まゆちゃんは好きな男の子に
バレンタインデーのチョコを
渡しました。



もちろんちゃんと
手渡しで。



そして、ホワイトデー。
まゆちゃんは、
その男の子からのお返しが、
家の郵便受けに入っていた、と
烈火の如く怒っていました。


「こういった大切なものは
 手渡しじゃないとダメだ!」と。



小学生を卒業後も
私たちの交換日記は
続きました。



私たちは進学先が
違ったので、
大変だからお互いの家の郵便受けに
日記を入れることにしました。



まゆちゃんの誕生日が近い
夏に届いた日記に
彼女が好きな男の子の
写真が貼ってありました。



入学式の写真で
大切だから、
今しか貼らないね、と
書いてありました。



私はまゆちゃんの誕生日プレゼントに
牛のぬいぐるみを買って、
その大切な写真を貼った日記帳を
一緒に手渡しすることに決めました。



誕生日プレゼントなんて
手渡ししないと怒るだろうな、って。



ところが、
私はりなさんが怖かったのです。
5歳も上の人に長年睨まれ続けて
恐ろしかったのです。



だから、
まゆちゃんの家の
インターホンを鳴らして
りなさんが出てきたらどうしよう、
と思うと恐怖で
足が遠のいてしまいました。



誕生日ギリギリに
意を決して行きました。
両手に冷や汗をかいて
心臓がバクバクした状態で。



ピンポーン。



誰も出ませんでした。



また暫く足が遠のき、
数ヶ月してから
行きました。




また誰も出ませんでした。




この時に郵便受けに
入れればよかったんです。

でも、日記帳には
大切な写真が
貼ってあります。


誕生日プレゼントは
手渡しした方がいいです。


日記が遅れてしまったことも
謝りたいです。


それで手渡しに
こだわってしまいました。



次に行ったのは
半年も経った後だと思います。



ピンポーン。



また誰も出ませんでした。




酷く罪悪感が残りました。



大切な親友の
大切な写真を
返していない。



誕生日プレゼントを
渡していない。



それは何年も私を
苦しめ続けました。



1年ほどしてから
また行きました。
それでも誰も出ませんでした。


この期に及んで
郵便受けに入れる知恵は
ありませんでした。



後悔し通しで
悪夢をよく見ました。
苦しくて苦しくて
中学時の思春期に
うまく生きられなかった時は
自分は悪いことをしたのだから
当然だと思いました。



大切なまゆちゃんを
裏切ったのだから、
もうこれ以上に大切な友人は
出来ないのは当たり前だと
自分に言い聞かせました。



何度も何度も、
夜、布団の中で
「まゆちゃんごめんね」と
謝りました。



それはずっと私の中に
しこりとして残りました。



悪いことをしたら
こんなに苦しいんだって
気づきました。



その後も何回か
ピンポンしたと思います。
でもダメでした。



20歳のとき、
成人式に
まゆちゃんに会えるかもしれない
と思って、
牛のぬいぐるみの誕生日プレゼントと
交換日記を持って行きました。



まゆちゃんは成人式に
来ていませんでした。




あとで母づてに
まゆちゃんはもう独立して
この街にはいないんだ、と聞きました。




あの交換日記とプレゼントは
随分と長い間
大切に保管して
おいておきましたが、
何度か引っ越ししている間に
無くなってしまいました。




まゆちゃん、ごめんね。
本当はお誕生日を
ちゃんとお祝いしたかったのに。
弱虫で大切な写真さえ
返せなくてごめんね。
友情を自ら
切ってしまってごめんね。





今、私の実家も
まゆちゃん、りっちゃん、
あみちゃんが住んでいたマンションも
解体されて一つの巨大な
マンションになっています。




もう3人がどこにいて
何をしているかも
全く分かりませんが、



4人の中で一番
人として子どもながらにも
未熟で迷惑ばかりかけていた自分を
恥ずかしいな、と思うのです。




こちらは、たぬきの親子さんの
企画参加記事です。


電車の中で
書きましたよ〜✌️
たぬきの親子さん、
素敵な企画を
ありがとうございます✨



#友達との青春話






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