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【ワーママ】学んだことで、無駄になることはない。


留学生に「転機」ということばについて
教えていて
私の転機はいつだったかな、と
考えてみました。

子どもが産まれて
職場復帰し、
そして
日本語の授業担当を
干された頃だった
かもしれない。


2012年に
日本語教師デビューした時は
311の直後で
留学生が日本に残っておらず、
日本語教師過多の
就職超氷河期でした。


当時、日本語教師になるには
420時間の養成講座を修了するか
検定試験に合格する
必要があったのですが、

これ2つをカバーしても
未経験者には仕事がない、と
言われる時代でした。

当然、必死で
両方の資格を取った私は
軽く10校は履歴書を
出しましたが、
そのうち何校からも
残念な通知を頂きました。


新人の時代から今でも
お世話になっている勤務校は
福祉の専門学校です。


12年間、
高齢者福祉業界で
うろうろしていた私は
ここでの仕事が何としても欲しくて、

他の学校よりも熱を入れて
応募書類を作成し、
神頼みを何度もした記憶があります。


この学校ではまず
応募してきた教師を
履歴書で100名に絞り
そのうち面接で16人を
合格させたそうですが、

合格した方や
既に在籍されている先生方は
超難関大学または大学院卒の
スーパーエリートばかりでした。

日本人なら誰でも知っている
アナウンサーの親御さんやら
裁判官の親御さん、
超難関大学の現役教授、
4ヶ国語堪能な方、
学習塾経営者などの
錚々たるメンバーの中、



どうして
色をつけても
中堅よりちょっと上かな、程度の
大卒でしかない明らかに異色の私が
合格出来たかと言うと、

福祉業界での現場経験を
買って頂いたんだと思います。


私は新人1年目から
この学校で社会福祉概論の
教材を作り、
それを先輩の皆様に
授業で学生に教えて頂いて
たくさん嫌味も言われましたが、
楽しかったなあ。



そのうちこの学校では
カリキュラムが変わり
福祉を教えなくなりました。


私は併設の
日本語学校に呼ばれて
初級指導をするようになりました。


初級は私が最も
経験を積みたいと思っていた
レベルです。


これには
専門的なスキルが必要でね、


教えた単語や文法のみで
説明する必要があるので

事前に自分が授業で話す会話を
一語たりとも漏らさず
書き起こし、
そこに使った語彙や文法が
既習のものか全てチェックし
違えば既習のものに書き換えます。


それからその会話をある程度覚えて
授業に臨むのです。


大きい口で、ゆっくり、はっきり。
ジェスチャーは大きく、
よく笑って、面白く。

留学生は知らない単語を使えば
即座に顔に出ます。

何度も失敗しながら
楽しくて、熱中し、
ここでの経験を何年か積んで、
バラバラだった学校ルールをまとめたり
担任をやるようになったりしました。


みおいち先生が
日本語学校を引っ張ってる、
なんてお世辞を言って下さる方もいて
自信家になっていました。
奢っていたとも思います。


妊娠したと分かったとき
育休後に穴を開けるのが心配で
真っ先に担当の専任の先生に
相談しましたが、

その先生は

「そんなこと心配したら駄目。
  急な代講を埋めるのは
  こちらの仕事だから
  1年でちゃんと帰ってきて」

と仰って下さいました。


ところが、
育休後、私は干されました。


担当の専任教師が
代わったこともあります。


ちゃんと引き継いで行くから、と
あなたの復帰後のことも
しっかりお願いしておくから、と
前任の先生は仰って下さいましたが
守られることはありませんでした。


私は日本語学校では
優しく、子育てに理解のある担任の
クラスから「お情けで」
何コマか頂けましたが、

迷惑よ、と
はっきり仰る先生もいました。

復帰しないで
2人目を作れ、とも言われました。


日本語学校の教師が
一堂に集まる会議で
教卓に立ち、

これから急な代講を
お願いして迷惑をかけるかも
しれないことを
全員に頭を下げて謝りました。


区役所に提出した通りの
就労をしないと
チビが保育園に入れないので
困った私を救ってくれたのは
専門学校でした。

専門学校のビジネス科目は
新年度からどこの項目をいつやるか
予定が決まっているので、
急にお休みを頂いても
ある程度は対応出来るのです。


私は
「経済学を教えて下さい」
と言われました。

経済は、私にとって
その頃未知の分野でした。


さらにその頃
学校指定の教材が無く、
自分で90分ぶんの教材を
作らなければなりませんでした。


子どもは1歳で、病気がちで
手がかかります。

でも、これを教えないと
仕事がありません。


専門学校の方でも
花形の日本語は
チビがある程度大きくなるまで
担当を頂けませんでした。


奢っていた私が
出産後、お荷物の迷惑をかける
ゴミのようになり、


経済学をお断りして
仕事を辞め、
専業主婦になる手も
なくはありませんでしたが、

私はそれを引き受けることにしました。


本を何冊も借りて読み込み、
自転車操業でレジュメを作り、
何とか教えました。


1歳のチビは夜泣きし、
私は喘息が出て夜も眠れず、
メヌエール病も酷くて

苦しくて、時間もなく、

正直、前日に
入浴できなかったまま
自分が匂わないかドギマギしながら

何とか教壇に立った日もあります。


この時の学生は
今でもはっきり覚えています。

喘息で潰れた声で
私が教えた拙い経済学を
熱心に聞いてくれて、
よく発言してくれました。


次の年、
また経済学が教えられるなら
ストックがあるな、と思っていたら

今度はマーケティングを
教えて下さいと言われました。


そこでまた私は
本を買い込み、知識を詰め込んで
何とか授業しました。


私は
授業に穴を開けることのない
他の優秀な先生方が
希望しない人気がない科目を
埋めるためだけの要員でした。


だから、
毎年同じ科目を担当出来ず、


日本語も日本語学校のお情けで
少し教えられるだけで、


年によって
貿易学や国際関係論など
様々な科目を回されました。


どうしてこんな!と
恨みもしました。

病気になってばかりで
苦しくて、
子育ては手がかかるし、
嫌味を言って来る人もいる中、

自分は何も価値がない
足を引っ張るだけの
ゴミみたいに感じて、

周りの先生方は
キラキラ輝いているように見えて、

それでも優しい人もいたので
何とか前向きになる努力をして、


毎日がぐちゃぐちゃで
闇雲で何だか分からないうちに
チビが大きくなり、

ある年、突然
また専門学校で
日本語の授業を
頂けるようになりました。


マーケティングは面白くなって
資格を取ったら
毎年教えられるようになりました。


私、
あの時は本当に苦しくて
子どもを産んだことで
仕事については
何も上手くいかなくなり、

幾つもの科目を
教えなければならなくなって

勉強してばかりでも
次の年もまた教えられないのなら
無駄でしかない、と
思っていたんです。


でも、
チビが大きくなってきて
何故か割とアカデミカルなこの子が
いろんなことを聞いて来るんですね。

例えば世界の情勢のこと。
経済のこと。
歴史のこと。


それで、
それを丁寧に教えている
自分がいて、


ああ、あの苦しかった時に
霧の中にいて何も見えず
それでも目先の授業のために
なんとか勉強していたことは

決して無駄になったんじゃないんだ。


むしろ、
この子を育てるために
必要なことだったんだ、って

今は思っているし
感謝もしています。


私、育休明けに
例えば勤務校のシステムが
働くママ向けになっている学校で、

子どもを産む前と同様
日本語科目のみを教えられていたら

チビのこの質問に
決して満足いくようには
答えられなかったし、

より広い興味がわくようには
会話を持っていけなかったと思います。


例えばそれでも
日本語の知識の幅が
今より広くなって
子育てに役立つことは
たくさんあったのでしょうが、

チビの個性や人となりを考えれば
ビジネス科目の中でも教養と呼ばれる分野を
幾つも教えた経験のある
今の私の方が
チビには合っている、と
感じるんです。


だから、
あんなに苦しくて
涙を本に落としながら、
病気がひどくて
発作に苦しめられながら、
学んだことは
決して無駄になっていない。


学んだことって
無駄になることは、ないんです。


※この記事は
 自己紹介記事が古くなったために
 書き直したものです。

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みおいち@着物で日本語教師のワーママ
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