おばあちゃんとピアノ
私が13歳のとき
同居の祖父が亡くなりました。
お葬式やらもろもろが終わった後、
祖母の長女だった伯母は
私たち三姉妹を集めて
言いました。
「おばあちゃんはこれから
さみしくなると思うの。
だから、簡単なことでいいから
出来るだけ話しかけてあげてね。
今日、学校でこんなことが
あったよ、とか
何でもいいの」
当時、
一階部分に祖母が
二階部分に私たちが住んでいて
キッチンとお風呂は
共用だったのですが、
伯母のこの話を聞いて
そんなことを言ってもなぁ、
と思いました。
長姉は私より6歳上で
酷い嫁姑戦争をしていた
祖母と母の、
完全に母側にいました。
まだ若かった祖母が
母をいじめていたところを
見ていたようで、
私からすれば
母も相当気が強いので
どうだか分かりませんが、
とにかくそれで長姉は
祖母が大嫌いで
家で会ってもあいさつすら
していませんでした。
次姉はのらりくらりと
していましたが、
日の高いうちには
家に帰って来なかったですし、
明るく快活で
人気のある人でしたが
当時は、そういう気遣いが
出来る人じゃありませんでした。
私はこの頃
もう思春期に入っていて
祖母どころか親とも
必要以上には話さなかった
気がします。
とにかく中二病が酷く
何をするにも恥ずかしくて
家族と口をきくだけでも
顔が赤くなりそうでした。
だけど
二階に私たちが何人かいて
祖母が一階にひとりのとき、
二階の楽しい声が
祖母には聞こえるから
さみしいだろうと思いました。
だからと言って
声をかけるほどの勇気も
ありません。
母は私と祖母が
仲良くするのが嫌いで、
そうするとすぐに
祖母にひどい嫌味を言ったからです。
だから、私は
ピアノを弾きに行きました。
アップライトとしては
重く大きい作りのブランドのために
1階に置いてあるピアノを。
母には、
私、おばあちゃんと
話していないよ。
ピアノを弾いているんだよ。
そういう素振りを見せながら
祖母には、
おばあちゃん、ひとりじゃないよ。
二階で楽しそうな声が
聞こえるけど、
私はここにいて
ピアノを弾いているから、
だから、ひとりじゃないよ。
そんな風に
ただ心だけで
話しかけていました。
私がピアノを弾き始めた音を聞くと
祖母は決まって部屋から出てきて
老人会やら習い事やらで
貰ってきたお菓子を
分けてくれるのです。
ただ、「あげる」と言って
多くを語らず、にっこり笑って
それで必ず
トイレに行きました。
祖母も私に話したのは
トイレに行くついで、のふりを
いつもしていたのでしょう。
幾つの時でしょうか。
祖母は自分が通うデイサービスで
私のピアノを弾いてよ、と言いました。
祖母は「あれを弾いて」と
言っていて
私はその「あれ」が
ショパンの幻想即興曲だと
分かっていたのに、
そのデイサービスでは
別の曲を弾きました。
確かベートーヴェンだったと
思います。
祖母はスタッフに
私のピアノの感想を聞かれて
「あまり良くない」
と言いました。
私は個人的には
ベートーヴェンの方が
好きなのですが、
華やかなのは圧倒的に
ショパンの幻想即興曲です。
どうしてこちらに
しなかったのか
今でもよく分かりません。
大学に入って
私はニューヨークの
ジュリアード音楽院へ
短期留学しました。
世界の音楽の名門ジュリアードを
ご存知の方なら
これを聞いて
「うえ〜っ⁉︎⁉︎ナニモノ??」
と、お思いでしょうが、
私のコースは
お金さえ積めば
誰でも留学できるコースだったので
すごくも何ともありません。
それでも
このジュリアードで私は
ピアノをずっと弾いていて
良い仲間も出来ました。
祖母は私のあげた
ピアノ留学のお土産を
死ぬまで大切にしていました。
私は大学を卒業して
就職で一人暮らしをするまで
毎日のようにピアノを
弾いていました。
そうすると決まって
祖母がトイレのついでに
私にお菓子をくれる
この習慣も
ずっと続いていたのですが、
祖母は私が家を出て
比較的すぐに亡くなりました。
私は新卒の特養でも
英国のナーシングホームでも
施設のピアノを我が物顔して
ずっと弾いていたけれど、
帰国して
在宅介護業界の本社に
勤め始めてからは
深夜残業ばかりで時間もなく
あまり弾かなくなってしまいました。
先日、久しぶりに
ピアノを弾いていて
思ったんです。
私が青春時代のほとんどの時間を
ピアノに費やして来たのは、
ピアノが好きだったから
なんだろうか?
おばあちゃんが好きだったから
なんだろうか?
って。
おばあちゃん、
私、ずっと練習していないから
もう幻想即興曲が
弾けなくなっちゃったよ。