【創作】ヘリオス 第3話
もうこんな恥ずかしい思いはしたくないし、早々にさようならしたかったのに、家元が「我が家に寄って娘の演奏でも」と言ったので、神様とご両親はついて来ることになった。
うう、試練だ、地獄だ。
だけど、稽古場に入ったご一行様は、さすが音楽家一家だった。稽古場も、立てられている箏も、敬意を持って興味深く接してくれているのが分かる。
萌黄色で絹仕立ての座布団を人数分用意し、お手伝いの中里さんにお茶をお願いしてくつろいで頂くと、私は普段稽古をつけるときのように正面に神様一家と対面して座り、箏を準備した。
「ご希望の曲はありますか」
「そうだな、やはり伝統的なのが良いな。春の海はどうだ。バイオリン曲としても有名だし」
堂々とした神様が言う。
この、調弦が難しい伝統曲は、私の十八番だ。どんな時でも、私の世界を変えてくれる。そう、たとえ、殺戮を好むマフィアが目の前にいようとも、お箏の正面に座った瞬間から春の海へといざなってくれる、宮城道雄の不思議な曲。
「素晴らしいわ。なんて贅沢なの。静謐で透明な春の海ね」
「うむ。凪さんの年にして、凪さんにしか弾けない魅力的な演奏だな」
演奏が終わり、神様のご両親が褒めてくださった後、彼らは両親に楽譜を見に誘われ、また私たちは2人きりになった。
「瀬戸内海に行ったことは?」
ずっと無言だった神様が、二人きりになると口を開いた。
「もちろんあります。箏を生業としている人なら、行く人は多いと思います」
「春の海は代表曲だからな」
「瀬戸内の人の前でこの曲を弾くのは、恐怖でした。でも意外と皆さん喜んでくれて、自信になって」
私は弦をぽんぽんとつまはじいて遊びながら、緊張したまま話す。
「そうだな。凪の演奏は穏やかな瀬戸内海でも、海への畏怖のようなものを感じた。知らないと弾けない表現だった」
急に呼び捨てで凪、と呼ばれて、ひるんでしまう。
「……。ありがとうございます。春の海って、観光客にはひねもすのたりのたり、に見えるかもしれないけど、近隣の人からすればそれだけじゃないと思うんです。
さらにそれを盲目の宮城道雄が作ったから、単なる平和とか、うららかで終わらせられない、もっと深淵な、人の力ではどうにもできない面も、曲にのせて伝えたくて」
私ったら何をペラペラと、初対面の人に話しているんだろう。こんな話面白くないだろうに、と彼を見ると、神様は私の一語一句漏らさぬような集中した面持ちで聞きながら、最後にこうほほ笑んだ。
「箏が好きなのか」
「はい、とても」
「親に言われてやらされているのかと思った」
「それもありますが、それだけじゃ次期家元にはなれません」
「そうだな」
神様は美しい所作でお茶を飲み、話を続ける。
「箏のどこが好きなんだ」
「お箏って、西洋の楽器には出ない音が出ますよね。ド、でもなくて、ドの♯でもない、曖昧な音が。自然の音に近い、というか。自由、というか」
「それが日本語とつながってるっていう話があるな」
「そうなんです。音が定められていないお箏などの和楽器を聞く日本人は、音も左脳で聴くので、あ、ほかの国の人は音は右脳で聞くそうなんですが、日本人は音も言語も左脳で聞くので、それで風の音も、小鳥のさえずりも、何でも言語化してしまうし、何でも音楽になるんです。雑音にならないで。
そう思うと日本人をそうさせた可能性があるお箏ってすごいなって。ロマンがありますし、絶対次代にもつなげて行きたいと思って。うまく言えないですけど」
宮城道雄はこう言っていた。
全てが音楽になり得る。なんて美しい世界なんだろう。
私が一気に話したことを、視線を片時も離すことなく神様は聞いてくれ、微笑んだ。この人は、意外と笑顔をよく見せる人だな。
「俺は音楽家を支えたいと思っている」
「東雲さんも音楽をやるんでしょう」
「まあね。だけど俺は一流にはなれない」
「そんな」
「まあそんな顔をするな。凪だってこの世界で食べていくのがどれほど大変か痛いほど知っているだろう。俺は両親の演奏を聴いて育ったから分かる。ユーチューブは俺の見た目と編集力で成り立っているが、演奏力では長くはもたないし、これを本業にするつもりもない」
神様は立ち上がり、立てかけてあるお箏を観察しながら言った。
「父も母も演奏だけの人間だ。金銭面を他人に任せていたら、ある時信頼していた奴に騙し取られた。俺はだからそういった面で助けられるように、仕事で経験を積んできたし、真の音楽家を支えることで食べていきたいと思っている」
暫くお箏を見つめていた神様は、私の方に視線をやって続ける。
「その面で凪は俺の条件にぴったりだ。俺は音楽家が集中して演奏出来るように、より多くの人に聴いてもらえるようなプロデュース力も磨いてきた。凪にとって俺はいい買い物だと思うが、どうだ」
静かな物言いの割に強い眼差しに、怯みながら私は返事をした。
「そんな条件で結婚相手を決めるんですか」
「見合いなんだから当然だろう。それとも高校生のような甘い純愛が必要だとでも?」
「そんなことは言っていません。私はこの家から継いできたものをより大きくして、次代に繋ぐために生きていると思っています」
私の話をしっかり聴いていたような顔をしたのに、神様はそれまで纏っていた空気を変えて柔らかく言った。
「まあ、君はラッコだからな。この話はゆっくり進めよう」
「ラッコ?ラッコってなんですか」
「絶滅危惧種ってことさ。雰囲気もぴったりだ」
神様はペットを愛でるような眼差しを私に向けて、失礼なことを優しくつぶやいた。
※参考
宮城道雄 オフィシャルページ
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