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【創作】ヘリオス 第2部 第8話


舞台袖に戻ると、優成くんが目を押さえ、肩を震わせて泣いていた。

「どうしたの優成くん」

「......感動して。本当に、本当に素晴らしかったです。......凪先生も泣いてる。疲れたでしょう、とりあえず楽屋へ戻りましょう」

声を詰まらせながら笑ってそう言って、私を楽屋へ連れて行った。

楽屋は家元と私用の小部屋と、それ以外の奏者の大部屋に分かれている。大部屋にいる門下生さんに挨拶しようとすると、廊下から昴くんがやってきた。

「先生、すみませんこれ、先生に渡してくれって言われて。プレゼント預かり所に行くように言ったんすけど、押し切られてしまって」

差し出されたそれはたくさんの向日葵で出来た、豪華なブーケだった。

「向日葵......まさか」

私の表情を見て、優成くんが口を挟む。

「昴、その人どんな人だった?」

「そうだな、大きくていい身体したイケメンだった」

聞くなり昴くんに掴みかかった。

「どっちへ行った!」

「うわっ、何だよ!知らねえよ!玄関じゃね?」

聞き終わるや否や、優成くんは全速力で走って行ってしまった。

私も慌てて着いていく。

「え?ちょっと!先生!着物でそんなに走ったら危ないっすよ!!」


だって急がないと、あの人はまた逃げてしまう。

走りながらブーケを見たら、鮮やかな黄色のカードが入っているのに気づいた。メッセージが書いてある面がチラリと見える。

ヘリオスは俺じゃない。凪、君だよ。
MIB

晃輝さん!

晃輝さん晃輝さん、晃輝さん!


転びそうになりながらも、思い切り走って玄関の方へ向かう。舞台のライトを浴びて熱った身体から汗が吹き出して、次から次へと背中を伝っている。足の速い優成くんはもう見えない。吹き抜けになっている2階の手すりにぶつかるようにして止まってから1階を見下ろすと、ホールに人だかりが出来ていた。人の多い休憩時間だから、優成くんがお客様に囲まれて動けなくなっている。


晃輝さん!

慌てて見渡すと、人混みの中に見覚えのある大きな背中が見えた。ちょうど私のすぐ下の方にいる。

「晃輝さん!晃輝さん‼︎」

喉が痛くなるほど大声で呼んでも、喧騒に声が掻き消されて届かない。晃輝さんは玄関の方に向かっている。


嫌だ、行かないで!由比ヶ浜で「死ぬまで離さない」って言ったじゃない!

追いかけても間に合わない。何か。ふと帯元に手をやる。もしかしたら。これは大事な……でも。


お願い届いて!

私はそれを思い切り、晃輝さん目掛けて投げた。

何かがゴツンと肩に当たって落ちたのに気づいた光輝さんは、落下物を拾ってから上を見上げ、私の姿を認めてぎょっとしたように何か言っている。


晃輝さん、嫌だ!逃げないで!

私は必死で走り、階段を転げるように駆け降りた。着物だから足が捌きにくい。落ちてもいい、だから行かないで!

晃輝さんは大股で上がって来る。

お願い!お願い!いなくならないで。

階段の踊り場で、ようやく手が届いた。息が切れる。

「凪、君は。心臓が止まるかと思ったぞ。こんな着物姿で全速力で走るな。危ないだろう」

「......だって......」

久しぶりの晃輝さんは、少し痩せたみたいだ。

「お願い。もう、逃げないで」

晃輝さんは、ちょっと躊躇ってから言った。

「......とにかく第一部の主役がこんなところにいたら危ない。楽屋へ行こう」

私の背に手をやり、進もうとした晃輝さんに言う。

「優成くんが」

私の視線を追って、晃輝さんは状況を理解する。

「晃輝さんを捕まえようとしたの」

「ああ全く、山田君は相変わらずだな。助けてくるから楽屋で待ってろ」

「お願い!いなくならないで」

「大丈夫だ。凪の騎士を救出したらすぐ行く」 

それだけ言うなり、晃輝さんは駆け降りて行ってしまった。直後、私はお上品なマダム達に囲まれた。

「川崎凪先生ですね。先ほどの演奏は大変素晴らしかったですわ。アタクシ、まだ震えがとまりませんの」

「あ、ありがとうございます」

私は下を気にしながら曖昧に答える。

私の視線の先を追ったマダム達は、口々に仰った。

「あら、あの方。先生のお弟子さんね。囲まれているわ、大変!先生それで心配で、楽屋から出ていらしたのね?」

「山田さんと仰ったかしら、お上手になりましたよね」

「そうよね。あれだけハンサムですし、目が離せないですわ」

マダム達は私の反応も気にせず、勝手に色めき立ってお話されている。

お客様にもみくちゃにされていた優成くんの近くに行った晃輝さんは、胸元からMIBサングラスを取り出してかけ、よく通る大きい声で言った。

「すみません、山田優成は次の予定がありますので、道をお開けください」

すると不思議なほどに人がすっと退いてくれた。やっぱり晃輝さんは神様だ。......いや、マフィアに見えて殺られると思われたのかも。

「まあ、川崎流にはあんなに屈強そうなボディーガードがいらっしゃるのね。さすが名だたる川崎流、ファンであるアタクシも、鼻が高いですわ」




私も晃輝さんに取り巻きから回収され楽屋へ入ると、優成くんは大部屋に戻って行った。 

「晃輝さん......」

小部屋のドアが閉まるなり、晃輝さんにしがみついて子どもみたいに泣いた。

晃輝さんは私を抱きしめると、想いが通じていた頃のように優しい声で言う。

「素晴らしい演奏だったよ、凪。心が震えて止まなかった」

久しぶりの晃輝さんの声。



「ううん、醜かったでしょう。......気づいたの。私、決して晃輝さんには近づけないんだって。

私の中は醜いの。嫉妬するくせにそれに見合う能力もなくて、寂しさやいろんな想いでぐちゃぐちゃになって、上手く取り繕えもしない。

だけど、これ以上になれないの。地を這うようなどうしようもない、ちっぽけな私以上に。

そんな私しかいないから、虚構を取り払って、それで、みんなより下なんだって暴露して、それを演奏にぶつけてやったの。

こんな弾き方をしたら誰だって離れていくと思ったの。でも、想いが溢れ返って、心の中に留めておけなかった。これが本当の私なの」

恐ろしい情念に焦げて、目を背けたくなるような焼け跡ばかり残っているのに、まだ心を焼き尽くそうとする、醜い私。

「だけど、もう、もう隠せない」



晃輝さんはもう一度、抱きしめている私の腕にぎゅっと力を入れた。



「素晴らしかったよ。とても。胸の高鳴りが今も止まらない。スランプを抜けたな。本当に、頑張ったな。

今までの凪の演奏はどこか人間離れしていて、ニンフみたいだった。

清涼で透明で、途中からは色気も出て美しかったが、近寄り難い雰囲気があった。だけど、今日の演奏は誰もが持っている感情を表現したものだ。凪の元々の雰囲気はそのままに、心を掴んで離さない。

心のうちを晒していいんだ。それがむしろ聞き手の心と共鳴して、神がかって聴こえた」

そこで私の顔を見て、晃輝さんは告げた。


「知ってるか、凪の演奏を聴いて、数多くの観客が感極まって泣いていたことに。嘘じゃない。家元の演奏が終わったら予定通り舞台で挨拶して来い。観客はそれを望んでいる。川崎流を繁栄させるんだろう。さあ、メイクを直して」

私はそう言われても、晃輝さんから離れることができなかった。



「だけど、晃輝さんは、その間にまたいなくなるでしょう」



「......いなくならない。約束する。君の騎士も無事、連れて来ただろう」

晃輝さんは、それでも不安気な私の顔を読んだ。



「信用できないか。無理もないが、困ったな」

「野々宮さんも檻に入れておけって言ったもの」

「......海斗め」


そこに別の声がした。


「お母さんが見張っていてあげるわ。晃輝さんとお母さんが、一緒に舞台袖まで行きましょう。大丈夫よ、逃げないようにしっかり捕まえておくから」

ここは家元の楽屋だから、お母さんが来ても不思議じゃない。だけど、また変にクネクネしていて気持ちが悪い。

「凪、お母さんがメイクを直してあげる」


ああそうだ、子どもの頃はいつも、お母さんにメイクしてもらっていた。そうしてもらうと、少し美人になった気がして、自分の演奏にも自信が持てた。

「凪にメイクするのは久しぶりね。あなた、また随分泣いたわね。でも大丈夫よ、上手く隠してあげるから」

「お母さん、メイク上手だね」

「当たり前よ。凪のために何年もメイク教室に通ったんだから」


少し皺が増えた手でするお母さんのメイクは、気持ちがいい。


「出来たわよ」

晃輝さんは私の後ろに立ち、私の両肩に手を置いて言った。


「凪、鏡で自分の顔を見てみろ。そう、とても綺麗だ。真っ直ぐ向いて」

鏡の中で私と晃輝さんの目が合う。

「凪は時期家元だ。歴史ある川崎流に君臨する演奏家だ。今日凪は、それに見合う、いや、それ以上の演奏をした。胸を張って、堂々とその顔で前を向いて、客を魅了して来い」


私はもう一度晃輝さんを見つめた。この人がいれば、大丈夫だ。

ちょうど「時間です」と呼ばれ、行こうとすると、晃輝さんが思い出したように声を出す。

「そうだ、忘れてた」

そうしてロビーで拾ったラッコの帯飾りをポケットから出して、私の帯に差した。

「こいつが凶器になるとは、思ってもいなかったよ」

晃輝さんの手元には、プラチナのバングルが光っていた。




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