【創作】アダージョ 高校生編 第4話
「それじゃあ、問1の①を片岡、②を川崎、③を......」
困ったな、頭が酷く痛む。昨日の合同演奏会で疲れたのかな。興奮して夜眠れなかったから。梅雨のこの気候もあるのかもしれない。平気なふりをして席を立ち、黒板に向かう。答えを書き終えて席に戻ろうとしたら、強い頭痛の波が来たはずみで教壇から落ちそうになって、心臓がキュッと縮まった。
「......危ねー!気をつけろよ、翠」
片足だけ派手に落ちたところで、教壇にいた片岡くんが腕を引っ張って助けてくれた。
「ありがとう片岡くん」
「まーたお前か川崎。お前のドジは高校生になっても直らないな!」
中3の時に担任だった数学の山内先生が冗談めかして言ったのを聞いて、昨年度クラスメイトだった皆がドッと笑う。
「すみません」
笑って返すと、頭がガンガンした。
「先生」
その時聞き慣れた声がした。落ち着いた声だった。奏真が手を挙げている。
「川崎さんは具合が悪いので、俺、保健室へ連れて行きます」
「ほーお?随分遠くの席から分かるんだな、山田」
先生がニヤついて言うと、奏真の友だちがおかしそうに続けた。
「何だぁ奏真!サボりたいのかよ!」
「俺も行きてぇ!」
皆がまた笑う中、奏真が真面目な顔で言う。
「顔」
先生の許可を得る前に立ち上がり、続けた。
「顔を見てやってください。明らかに具合が悪そうです」
「どれ。確かに青い顔だな。体調悪いのか、川崎」
「すみません、さっきから頭痛が酷くて」
「行こ、翠。歩ける?」
奏真はまた先生の許可を得る前に、私の手を引いて保健室へ向かった。私は慌てて、先生すみません、と伝えた。教室のドアを閉めるなり、キャーッと黄色い声が上がるのが聞こえる。
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「熱があるね、38.3度。これは帰らないとね。親御さんに連絡して来てもらうけど、今いる?」
保健の先生に寝てるよう言われて、翠はベッドに横になった。頑張りすぎだ。昨日の張り詰めるような演奏会と、遅くまで打ち上げに顔を出した後なのに、翠は不自然なほどいつもの授業に熱心に参加していた。何が翠を、ここまでさせるんだろう。何にでも力を入れすぎだ。
「翠、大丈夫?」
「うん、ありがとう。頭が痛いけど、横になったから少しはいいみたい。もう戻っていいよ、奏真。本当にありがとう」
翠は白い顔をしていて、そのまま消えてしまいそうだ。
「いや、もう少しここにいるよ。晃輝先生、事務所にいるだろ?車で来たらすぐだから、それまで一緒にいる」
「だけど授業遅れちゃうよ」
「分かるところだからいい」
そこに電話が終わった先生がやってきた。
「お父さんがすぐ来てくれるそうよ。はい、付き添いの君は授業に戻ってね」
「じゃあ、俺、翠の荷物を取って来る」
「え、いいよ。机の上に出しっぱなしだから、後で私が行くよ」
「熱があるのに何言ってんの。まとめて持って来るよ」
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1日早退し、2日間休んでようやく学校に来られるようになった。駄目だな私、演奏会で休むことが多いから、他の理由で休みたくないのに。
あの日、奏真に荷物をまとめられるのは恥ずかしかった。私の持ち物、汚れていなかったかな。机の上はガサツに置いてなかったかな。だけど私の持ち物を少しでも奏真が触れたんだと思うと、推しのアイドルが持ったようで気持ちが弾む。
今日はお互い部活のない日なので、奏真と一緒に帰ると、一華ちゃんが私に用があるみたいだから寄ってと言う。奏真の家に上がるのは久しぶりだ。フードコートもそうだけど、奏真と久しぶりのことが続いて、元いた懐かしい時間にまた戻っているみたい。
奏真の家のリビングは、小さい頃とあまり変わらない。すっきりとして淡く、テーブルに可愛い花が生けてある。ソファーにいるように言われて座ると、奏真がココアをいれてくれた。
「母さん、すぐ戻って来ると思うから」
奏真はココアのマグカップを私に渡すと、自分のを持って隣に座った。
「もう何ともない?体調」
「うん、おかげさまで。ありがとう奏真」
笑って言ったのに、奏真は心配した顔をする。
「翠、何にでも頑張りすぎだよ。どうしてそんなに頑張るの」
思いもよらない話をされて、躊躇した。
「そんなことないよ」
「そんなことある。翠、あの演奏会をこなした後で、疲れているのに授業も熱心だったら、体を壊すのは当然だよ」
「そうでもないよ。私、成績だって奏真みたいに良くないし」
「翠は俺よりずっと多くの演奏会に出ていて、休むことが多いのに、じゅうぶん凄い方だ。何にでも、棍を詰めすぎだよ」
「……私、頑張ってたのかな」
自分では頑張りが足りないと思っていたのに、どうしてだろう。何故か目元が熱くなった。
「そうだよ。どうしてそんなに頑張ってたの」
「私、そんな風に見える?」
「見えるよ、少なくとも俺には。熱心すぎて、見ているのが辛い」
こういう真剣な話は、逃げ出したくなる。だけど奏真は真面目に聞いているから、ちゃんと答えないと。
「私......自信がなくて」
「どうして」
「自分を好きになれなくて」
「うん」
奏真の相槌はゆっくり溶けるように優しかった。
「それで、頑張れば少しは、自分のことを好きになれるんじゃないかと思って」
「そっか」
「だけど私、全然ダメで。いろんな人に嫌われている自分のことが嫌いで、だから焦って、何とか好きになれるように、頑張らなきゃって思って、それで」
涙が止まらなくなって、奏真の手が私に重なったとき、一華ちゃんが入って来た。
「ただいま。翠ちゃんお待たせ......って奏真!またあなたは何泣かせてるの!」
一華ちゃんは急に激怒して、持っていたマイバックから大根を抜き取り、奏真目掛けて振り下ろした。
「待った待った母さん!」
奏真が大根を手のひらで受け止めると、一華ちゃんは両手でまたそれを振り下ろそうとする。
「待つわけないじゃない、このいじめっ子!くらえ、だいこん剣!」
「わー!一華ちゃん待って!奏真が悪いんじゃないの!」
「......え?」
力を急に緩めた一華ちゃんの手から大根が落ちて、奏真の頭上で鈍い音を立てた。
「大根め。近いうちに必ず食ってやる」
根菜に恨み言を言う奏真を無視して一部始終を話した私の、奏真と反対の隣に座った一華ちゃんは、聞き終わると意外なことを言った。
「そっか、翠ちゃんはちょうど、生きるのが辛い年ごろだからね。私もその頃はすごく自分が嫌いで、辛かったなぁ」
「え、一華ちゃんも?そんなに可愛いのに」
「ありがとう。私、話すのが遅くて、話し方も鼻にかかってるから、女の子に好かれなくて。男子に媚びてるとかいろいろ悪く言われていたの。それで、自分がとてもダメな人間みたいに感じて、嫌で嫌で、話し方の本を借りて家で特訓したりして頑張ってみたけど、上手く行かなくてね」
一華ちゃんの話は、まるで私みたいだ。
「一華ちゃんは、その時どうしたの」
「うん、あのね翠ちゃん。自分のことが嫌いでも、無理して好きになろうと努力しなくても良いと思うの。他の人だって、嫌いな人のことを好きになるのは難しいじゃない?ましてや裸も、心の中も、何でも知っている自分のことなら尚更だから。好きになろうって頑張っていると疲れちゃうし、それで病気になっちゃったら、とても大変でしょう?」
一華ちゃんは私の手に手を置いて、私の眼をしっかり見て言った。茶色い目が奏真だなって、ぼんやりと思う。
「自分を好きになる、ならないは置いておいてね、私は、小さな幸せを数える癖をつけたの。例えば、翠ちゃんなら、お箏が上手く弾けたなとか、ココアが美味しいなとか、何でもいいの。自分を好きになれなくても、幸せを感じていれば、そのうち自分を嫌いだって思う気持ちも少なくなるから」
「小さな幸せ......」
「そう。孤独に悩んだときは、窓から外を見上げて、空が綺麗だなって気づくだけでいいの。自分を嫌いじゃなくなるには、長い時間がかかるかもしれない。だけど躍起になって頑張らなくても、幸せだって気づけば、そのうち自分を認められるようになるから」
「それなら、出来そうな気がする」
そう言うと一華ちゃんは、その心の中を反映したみたいに綺麗に笑った。
「焦らなくていいの。毎日少しずつ、小さな幸せを探してみて」
「うん、ありがとう一華ちゃん。やってみる」
笑ったつもりなのにまた涙がこぼれ落ちた。一華ちゃんは私を抱きしめてくれた。
「頑張ったね、翠ちゃん。あんなにすごい舞台で素晴らしい演奏をしたのに、他のことも疎かにしないで大切にしていたんだね。自分で頑張ったことに気づかないくらい、一生懸命頑張ったんだね。偉かったね」
「でもね、頑張らなくても大丈夫だから。大事なことはそうする必要があっても、他のことはね、疲れたら休んで、気を抜いて、困ったら助けてもらえばいいの」
私は子どもみたいに一華ちゃんの胸で泣いた。その間ずっと、一華ちゃんは背中を摩っていてくれた。
「なんか、母さんに良いところ全部持って行かれて、狡いな」
「大人の特権だよ、奏真。翠ちゃんはね、見た目は凪ちゃんにそっくりだけど、中身は私によく似てるの。だから人ごとに思えない」
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