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【創作】アダージョ 高校生編 第8話
どうして、奏真。どうしてそんなニ箏が弾けるの。
4人で第一箏とニ箏の担当を、回によりミックスした「龍歌」。お母さんと優先生の「龍歌」は、一箏でもニ箏でも鳥肌が立って、目が潤んでしまう。
奏真の第一箏もさすがだった。「龍歌」の主役が龍だけじゃない。龍が悠々と飛び交う自然の端までが目に見えるような、広大な演奏。奏真ならではの「龍歌」だ。
だけど、3日目にお母さんと合奏する奏真の第ニ箏を、稽古場で聴いて胸が張り裂けそうだった。迷って、孤独で、行き場を無くした不安でいっぱいの龍。こちらに来たと思ったらまた、遠くへ行ってしまう。どうして、奏真。そんな苦しそうに演奏するの。まるで何か大切なものが、手から擦り抜けていってしまったように。
「奏真、何かあったの」
練習の演奏を聴いた後で聞いてみると、ゆっくりと柔らかに笑って私の頬に手を当てた。
「翠には、分かっちゃうね。だけど俺自身まだ、はっきり見えていないんだ。もう少し待ってて、翠。必ず話すから」
不透明な話をしてから奏真は続ける。
「一つだけ。俺は翠がすごく好きで、近くにいられることに感謝してる。お陰でとても幸せだ。だから、心配しないでウィーンの演奏会に集中しよう」
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この辺りの空は、広いな。雲が厚くかかってはいるけれど、東京のように高いビルが乱立していない。代わりに、樹齢の高そうな木々がサワサワと揺れている。会場となるシェーンブルン宮殿の周辺を、せっかくだからと前日に皆で散歩することになった。曇ってはいても過ごしやすい、高校2年生のゴールデンウィークだった。
「この辺は馴染みがあるんですか」
晃輝先生はウィーンに興奮した俺とは違い、周囲に完全に溶け込んでいる。
「そうだな。留学中も前職でもよく歩いた道だ。川崎流の商談でも来ることがある」
晃輝先生は路面電車とその線路を、愛おしそうに見つめながら歩く。
「川崎流をオーストリアで広げたら、ヨーロッパは安泰ですか」
「そうでもない。中欧やドイツ語圏には広まりが早いが、西ヨーロッパは苦心する。あそこは世界的にも文化の中心だから、喉から手が出るほど欲しいんだがな」
街路樹の樹洞を見つめ、西洋の絵画のようだと思いながら聞く。
「イタリア、フランスは他国の文化にも開かれているが、特にイギリスは門戸が狭い。だがあの国で一度受け入れられれば、世界に一気に広まる。何だかんだ言って英語圏は強いからな。アクションを起こしてはいるが、プライドが高く排他的だから、易々とはいかないな」
前を歩いている凪先生と翠は、観光に来た姉妹のようにはしゃいでいる。その前方には一時帰国ついでに案内役を買って出たアーロンが、ベタベタと父さんに近づいて親し気に話している。
案内役なら晃輝先生でじゅうぶんだと思うけど、大丈夫かな父さん。あ、今アーロンが父さんの腰に触れた。あいつ、危険だな。父さんは女性からの好意は鋭いくせに、男から向けられる想いには鈍すぎる。
「晃輝先生が世界を見据えるのは、少子化だからですか」
「それもあるが、日本人というのは日本の良さに疎いんだ。外国で騒がれて初めて、自国の文化の魅力に気付く。浮世絵でも、伝統工芸でも、何でもそうだ。だがその良さに日本人が気づいた頃にはもう、瀕死の致命傷だ」
前から翠と凪先生が手招きしている。橋の向こうに見える広大な宮殿は、有名なマリア・テレジア・イエローだ。
「だから海外から攻める。箏を死なせたくないが、日本人はボンクラだからな」
その日の夜は、晃輝先生の旧友でこのコンサート開催に尽力してくれたという人達と会食をした。晃輝先生はその友達とドイツ語でペラペラと喋りつつ、俺たちにメニューやら風習やら色々教えてくれた。
隣にいた父さんは、旬だという驚くほど大きい白アスパラをナイフで切りながら言った。
「晃輝先生のあの人脈が、この仕事に繋がったんだ。覚えておけ奏真」
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ウィーンでの演奏は大盛況で、特にお母さんと優先生の人気は絶大だった。「龍歌」しか演奏しなかった奏真と私も、人気のある2人の子ということもあり、割れんばかりの拍手を頂いた。
奏真は海外での演奏をやり切ったからだろうか、霧が晴れたような顔をしていた。そして、いつも以上に私に優しく、大切に接してくれるようになった。そうして背後から、お父さんのマフィアのような監視を受け続けている。
帰りの飛行機の中で、奏真は優先生に警告した。
「父さん、飛行機で寝たらダメだよ」
アーロンは私たちより先にウィーンに行き、滞在中もご実家に帰っていたから、行きの飛行機もホテルでも安心だったけど、帰りの飛行機では優先生の隣を確保して、締まりのないとろけた顔をしていた。
「奏真は俺を殺す気か。何時間乗ると思っているんだ」
呆れて優先生が言うと、すかさずアーロンも加勢する。
「そうです、ソーマさん。ユーセイさんは疲れています。寝なければ、なりません。寝ましょう!」
優先生はかなり鈍い。アーロンが優先生を狙っているのは、門下生の中でも有名な話だ。アーロンの隣は危なすぎる。
「ああ、山田君、すまないが席を変わってくれ。窓際は俺には狭くてね。君は細いだろう」
察したお父さんが、通路側にいるアーロンの隣の中央席にいた優先生に頼んだ。
「別に構いませんが、窓際の方がゆったりしているんじゃありませんか」
訝し気な顔をしながら、優先生はお父さんと席を変わった。ナイスお父さん!
「佐々木君の苦労が分かる気がするな。全く山田家は、親子揃って目が離せない」
かくして優先生は無事に窓際に避難し、体格のいいお父さんとアーロンがきゅうきゅうと並ぶことになった。
「ホテル・ザッハーのザッハトルテ、濃厚で美味しかったなぁ」
演奏会が終わった安心感で、飛行機の中では話が弾む。
「また、翠はそればかりだね」
「うん。だって、日本にいたら食べられないんだもん」
呆れた奏真に言った私に、お母さんが笑って口を挟んだ。
「奏真くん、翠はウィーンではザッハトルテを食べるために演奏会に出てるの。翠、次のウィーンの演奏会も出演決定ね。ザッハトルテ、食べたいでしょう?」
「ええ、また?」
「うん。お父さんが次の演奏会も取ってきてくれたの。奏真くんも出る?」
今回の演奏会は、海外なのに楽しかったな。奏真がいてくれたからだ。プレッツェルを一緒に道で買い食いしたり、美術史美術館を観光したり、親同伴でもデートみたいだった。期待して奏真の顔を見ると、予想に反してその顔は曇っていた。
「いつですか」
「12月。ウィーンの後にプラハとブダペストでもあるの。冬休みだから、学校を休む心配もないよ」
「ちょっと考えさせて下さい。出来るだけ早く返事します」
「うん、いいよ。もう2年生だから、進路のこともあるよね」
進路。奏真は、どうするんだろう。通路を挟んだ横では、お父さんが不自然に新聞を広げて、アーロンから優先生が見えないようにして読んでいた。アーロンはため息をついている。きっと寝ているんだろうな、優先生。
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海外の演奏会は初めてだったけど、掛け替えのない経験になった。川崎流のウィーンのファンが、あんなに熱狂的なことが肌で感じられた。川崎流は海外を軽視したらいけないと、晃輝先生に聞いた話も相まって自然と思えた。
翠と長く一緒にいられたのは、心が満たされてくすぐったいような感覚だった。ギラギラとマフィアのような恐怖の監視が入ったけど、まだ眠そうに朝食を食べる翠も、チーズの美味しさに感動する翠も、ウィーンの景色の中にいる翠が全て新鮮で愛おしかった。
343段の狭い階段をぐるぐると上り、辿り着いたシュテファン大聖堂の南塔から見たウィーンの街並みが絵本のように美しくて、周辺の赤い屋根に守られるようにして建つこの聖堂の、鱗模様の緑と白と黒とグレーの日本にはない調和に、全てを忘れまいと食い入るように見つめた。
感動を伝えようと視線を隣に移したら、手の届かない遠くへ行ってしまったような顔をしている翠がいたので、俺は思わずキスをして現実に引き戻した。
柔らかい唇を堪能した後、ふと晃輝先生の存在を思い出し慌てて周囲を見回したら、その場に晃輝先生はいなかった。まるでマフィアを出し抜いたシャーロック・ホームズになった気分だ。翠はそんな俺を見て、ケラケラと笑っていた。
何より演奏中の翠は美しくて、誇らしくて、俺はやっぱり翠とずっと一緒にいたいと思う気持ちが強くなった。
翠はきっと家元になる。海外であんなに堂々と心を掴んで離さない演奏をする翠を見て、そう思った。凪先生のように川崎流を守り、広げるために尽力する。きっと翠は、その真摯な心でもっと偉大になるんだろう。
そんな翠とずっと一緒にいたいから、そのために俺は、俺がすべきことは。
家に帰り、荷物を片付けて母さんと由乃にお土産を渡す。ひとしきり土産話をしたところで、俺は切り出した。
「父さん母さん、話があるんだ」
続きはこちら。
前回のお話はこちら。
第1話はこちら。
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