【創作】ヘリオス 第2部 第6話
3月4日。
晃輝さん、恋って難しいね。どうして上手く行かないんだろう。私はいまだに周りに霧がかかっていて、心がザラザラと音を立てるように痛むのに、貴方に会えないままでいる。
稽古場で一人ひとりの練習を見ているとき、佳奈ちゃんの手運びを助言しに行った。
「佳奈ちゃん、そこは腕を使ってこうした方が自然な音が出るよ。......佳奈ちゃん?」
佳奈ちゃんは下を向いて怒った顔をしている。
「どうしたの?」
「先生、これ以上山田君を、いいように使わないでください」
少し鼻にかかる可愛い声で攻撃され、何のことか理解できない。
「え?」
「おい、優成」
途端に佳奈ちゃんの隣にいた昴くんが、優成くんに警報を鳴らすような声をかける。
「私、山田君がかわいそうで見ていられません!」
すると優成くんが即座に立ち上がり、怖い顔で近づいて来て、佳奈ちゃんを見下ろして言った。
「石原さん、俺のどこがかわいそうなの。凪先生を攻撃するなら、女の子でも怒るよ」
甘い顔なのに言っていることがきつく聞こえて、咄嗟に声が出る。
「いいよ、優成くん」
「どうして凪先生が庇うんですか」
「だって、気持ち分かるから」
佳奈ちゃんはきっと優成くんが好きなんだ。私が側にいると苦しいんだ。
そう言って佳奈ちゃんのことを見てから、優成くんに目をやって気づいた。
優成くんも同じなんだ。
恋するって、なんて辛いんだろう。
「先生、そういうの私いらない。いい人のふりして気持ち悪い」
「ちょっと石原さん!!」
「なに言っちゃってんの。日頃の恩も忘れて!」
「それは酷いですよ!」
数人の声が重なった。もはやクラスの全員が練習の手を止めて、固唾をのんでいる。
声にならない優成くんが動こうとしたところ、昴くんが立ち上がって止めた。
「はいはいはい、優成、少し落ち着け」
佳奈ちゃんは興奮で身体が震えて、話が止まらない。
「山田君、先生にいつもいいように使われてるでしょう。学校訪問だってあんな数、絶対大変だったよ!YouTubeのせいで普通に外歩けなくなったし、MCだって」
「......それは俺が全部俺が選んだことだ。学校訪問同行は、凪先生の力になりたいから、俺から提案した」
優成くんは息を吐きながら話す。
「YouTubeもMCも、俺の意思でやると決めたんだ」
努めて声を抑えているようだった。
「それのどこがかわいそうなの。.....それをどうして先生のせいにする」
「だって、山田君、いつも先生を見て苦しそうにしてるじゃん!」
「それは先生のせいじゃないよ!」
「え〜、それ言っちゃ駄目なやつだよ!」
また何人かの声が重なる。
「......それは、俺の一方的な感情だよ。憐れまれる筋合いはない。石原さんに......関係ないだろう」
ナイフのような鋭い声で優成くんに言われた佳奈ちゃんは、泣いて飛び出して行った。
「ちょっと佳奈!もう本当に!先生ごめんなさい、佳奈には私、よく言っておきます!今日はここで!ありがとうございました!」
美咲ちゃんが慌てて荷物を持って、追いかけていく。
「......いやぁ、修羅場でしたね〜。どうなることかと思ったっす!」
昴くんが稽古場全体の雰囲気を戻すように、調子良く言ってから、優成くんの肩を抱いて真面目な声に戻った。
「優成、お前、よく我慢したな」
「......女の子相手に......大声出せないだろ」
「お前は強いよ、本当に。尊敬する。一回外行くべ」
昴くんはそう言って、優成くんの肩を組んだまま連れて出て行った。
「......これじゃお稽古になりませんね。今日はこれで終わりにしましょうか」
声が震えないように気をつけながらそう声をかけると、残された主婦グループのお弟子さん達が気を遣ってくれた。
「先生大丈夫?あんな子の言うことなんか、気にしないでよ、ただのヤキモチだから」
「そうそう、私たちみたいな歳になったらさ、後悔すんだこれが!若い頃って馬鹿だから気づかないのよ!」
「恥ずかしくって、穴があったら入りたくなるんですよね。謝りたいと思っても、その時の人はとっくにいないし」
「......ありがとうございます。......どうして恋って、上手く行かないんだろう」
そう呟いた途端、菅野さんに抱きしめられた。
「あ〜もう可愛いなあ、先生。大好きよ!先生に必要なことは、自分のせいだと思わないことね。後は、若者の特権よ。悩め悩め!」
3月19日。
晃輝さん、私ね、24歳になったよ。晃輝さんがいなくなってから、苦しくて辛くて、もう生きていけないと思ったの。だけど、我慢して何とか日々を過ごしてる。晃輝さんがいないのに、こんなに頑張って生きて来たよ。偉いでしょう。だから、一目でいいの。お願いだから、会いたい。
佳奈ちゃんからお稽古をやめると連絡が来た。私が嫌なら他の先生を紹介すると言ったけど、断られた。能力ある貴重なお弟子さんがひとり、いなくなってしまった。
「お姉ちゃ〜ん‼︎」
遠くから鈴の興奮した声がする。私が稽古場にいると、足音をたてて大騒ぎで入ってきた。手に何か荷物を持っている。
「おおおお、御曹司‼︎」
「はあ?」
「ふふふふふ、不倫?」
「はあ???」
「いいいつのまに、御曹司と不倫したの???」
勢いよく顔面に荷物を差し出したので、訳の分からないまま受け取ってみる。ワレモノ注意のそれは私宛で、差出人は...野々宮海斗。
「ぎゃああああ‼︎何これ何これ何これ‼︎」
野々宮海斗さんと言えば、世界的に有名な高級老舗陶器ブランドであるNONOMIYAの次男で、1年ほど前にこれまた老舗の和菓子屋春雪のご令嬢と結婚なさった有名人だ。
「おおお、お姉ちゃん、心当たりないの?」
「あるわけないでしょう!なんでこんな有名人が」
「お姉ちゃんだって有名人じゃん!」
「私は超ニッチ産業なの!」
「じゃああれだよ、きっと、中は爆弾!名前に釣られて開けたら、バーンってなるんだ‼︎」
「えええええ‼︎」
よりによって誕生日に爆発事故?稽古場の空気が恐怖一色に染まる。
送り状をよく見ると、電話番号が打刻してある。番号をネットで検索してみると、「野々宮ホールディング」とヒットした。
「何だか分からないけど、開けてみる」
「やめなよ、お姉ちゃん‼︎そんな有名なとこの電話番号なんて、誰でも勝手に使えるよ!」
「でもこのサイズ、カップ&ソーサーみたいだし」
「いやぁ〜!神様仏様ゾンビ様〜‼︎」
怖がる鈴を無視して包装紙や緩衝材を開けると、世界的に有名な青色の箱が出てきた。慎重に箱を開ける。目に飛び込んで来たのは、美しい紺青色。
「鈴、爆弾じゃないよ」
ソーサーを先に手に取ってみる。世界が欲しがる、最高級の紺青。こんなに美しいものが、どうして私の手に来たんだろう。
カップを取り出すと、それはティーカップだった。金の縁取りに丸みを帯びた可愛いフォルム。
正面の絵を見て、一瞬目を疑う。その後大粒の涙が溢れ出た。それは一気に流れ落ちて、止まらない。
「お姉ちゃん、どうしたの?もしかして催涙ガス???」
野々宮ブランド独自の紺青色をした穏やかな海に、気持ちよさそうに浮いているそれは、お腹に貝を乗せて嬉しそうにしている。貝の中央に、大きなダイヤモンドの絵。
次々と涙が出て耐えられなくなった私は、カップとソーサーを丁寧に置き、両手で顔を覆い身体中を震わせ嗚咽した。
「お姉ちゃん、大丈夫?だから開けるなって言ったのに!そんなに強力な催涙ガス???」
「お電話頂けると思っていました。川崎凪さんですね。野々宮海斗です」
鈴に事情を話し、落ち着いてから送り主に電話してみる。電話口で名を名乗っただけで、お忙しいだろうにすぐに本人に繋いでくれた。
「凪さん、驚かせて申し訳ありませんでした。ティーカップの実際の贈り主は分かりますね」
「はい......東雲晃輝さんですね」
「そうです。あいつ、無理な特別注文をして来て、ようやく出来たから連絡すれば、俺の名前で必ず今日の日付で貴女に送っておいてくれ、と頼んで来まして」
冷たく聞こえるクリアな声がそう告げる。
「それは、ご迷惑をお掛けしました」
「貴女が謝る必要はありません。晃輝には借りがありますし。それに、妻が貴女のファンなので、電話でお話出来て自慢になります」
抑揚の無いクールな声に、「妻」のところだけ明るい色が乗って聞こえる。奥様は私じゃなくて優成くんのファンなんじゃないか、と思いつつお礼を言って、一番聞きたかったことを口にする。
「あの、晃輝さんの居場所はご存知ですか」
「私の口からは何とも言えません。申し訳ありません」
「そうですか.....」
「......お節介ながら、これだけは言わせて下さい。晃輝はずっと貴方のことを想っています。あいつ、物事に動じないし強そうに見えて、意外と弱いところがあるでしょう」
「はい」
例えば優成くんのようには、晃輝さんはプライドも邪魔をして自分の気持ちをはっきり言えない。それは私との共通点の一つだ。
「それに意外と優しくて、不本意でも、人の気持ちを優先させることもある。違いますか」
「そう、だと思います」
晃輝さんはいつだって包み込むような、陽光の優しさを持っている。
「だから俺から見ればイライラするんですが、恐らく晃輝はこれ以上長く貴女と離れてはいられないでしょう」
「そうでしょうか」
「そうです。だから会いに来たら、これ以上離さないでやって下さい。間違った方向に貴女のためを想って、逃げるかもしれないので、しっかり捕まえて檻にでも入れておいて下さい」
「よく、分かりませんが、分かったような気もします」
「お会いしたこともないのに、変な話をしてすみません。貴女のことはいつも晃輝から聞いていたので、つい応援をしたくなりまして」
この人もクールな声だけど、優しい人なんだな。勝手に晃輝さんといるところを想像してしまう。
「凪さん」
そこで御曹司は息をついた。
「どうかお元気で。辛いこともあるでしょうが、貴女が元気がないと、あいつは悲しみます。無理にでも、努めてお元気でいてください」
「それって、晃輝さんがまだ私を、少しは気にしてくれているってことですか」
「あいつは長い間、貴女だけを愛しています。今でもずっと」
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