ヘリオス 外伝 第9話
必要な仕事を終わらせ、定時に上がって帰宅すると、もう一華は食事を作ってくれていた。
「一華、大丈夫だった」
「うん。私ね、明日はお休みしなさいって」
「そう。明日だけ?在宅勤務は?」
「分からない。リモートは不可能だって。状況を見てまた連絡くれるみたい」
俺は嫌な予感がした。女性というのはとかく職場において立場が弱い。
「そんな顔しないで。私、有給たくさん残ってるし、明日はテレビの前で応援してるから。ご飯できたから、食べよう?」
一華は自然に笑って配膳を進めた。
「一華」
「ん?」
「俺は、出来る限り、一華を守るから」
一華は手を止めて俺の方に近づいた。
「無理しないでいいの、優成。ここにいてくれるだけで、昨日してくれたことだけで私、とても幸せだと思うし感謝の気持ちでいっぱいなの」
そうして一華は俺の頬に触れて続ける。
「優成、私ね、優成が好きだって言ってくれたことが、本当に嬉しかった。そのことばだけで私、きっとおばあちゃんになっても幸せな気分で生きていける」
俺は一華の手に俺の手をそっと重ねた。身体中が熱くて甘い。この瞬間を切り取って、永遠に閉じ籠っていたい。
「一華は大袈裟だね。愛してる。いつまでも言い続けるよ」
一華の唇が俺のに重なる。俺はきっと、この幸せな日をずっと忘れない。一華の胸に手をかけると、腕を掴まれて制止された。
「ごめんね私、今日生理になっちゃったの。ご飯食べよ?」
......こんな時に限って。
「今日の着物も素敵ですね、よく似合っています」
梅紫に大柄の牡丹。帯は豪華な金紗の七宝文様。凪先生には高貴な色と柄がよく似合う。
「ありがとう。気合いを入れようと思って。優成くんもすごくカッコいい」
「勤務先で一番良いのを借りました。川崎さんは......マフィアみたいですね」
「そうでしょう!?」
途端に両方の掌を合わせ、大喜びして凪先生が同意する。
「2人して酷いな。とにかく、俺達は被害者だ。何も悪いことはしていない。マフィアのように堂々と行こう」
「......マフィアのように堂々としたら、加害者に見えませんか?」
「いいのいいの!メン・イン・ブラック!」
凪先生が嬉しそうに言った。メン・イン・ブラック?ずいぶん古い映画だな。あれってマフィアの話だったかな。
後で都合よく編集されるのを恐れて、会見は生中継で行われた。会場には馬鹿みたいに大勢の報道陣がいる。平和だな日本は。俺が先に出るとフラッシュの光に攻撃され、眼が見えなくなりそうだ。
打ち合わせの通り、諸々の挨拶の後、まず凪先生が話をする。
「現在は師弟関係を解消しているものの、山田優成は私が、6年もの長きに渡り一から大切に育てた弟子でございます。私が箏のみに没頭している間、山田は本業をこなしながらも類まれなる才能と努力を以って、この地位にまで上り詰めました。こんな技は滅多に出来ることではございません。
また彼は人に優しく、真っ直ぐで強く、悪を決して好まぬ性格です。そんな彼から私は学ぶことも、支えてもらったことも、数えきれぬほどございました。私がこうして次代家元としていられるのは、彼の存在があってこそと申し上げても過言ではございません。
このような川崎流の掛け替えのない仲間に対する、謂れのない誹謗中傷、決して許されるものではありません。本日、強く抗議致したくこの場をお借りした次第でございます」
凪先生は怒りで少し声が震えていた。その場を和らげるように、川崎さんが続ける。
「川崎流次期家元の、お飾りの夫です」
そこで川崎さんは笑いを取った。
「私はまだ結婚して日が浅いのですが、私とそこにいる凪との結婚は、山田優成君の存在が無ければ成立しなかったであろうと思っております。
彼は非常に曇りのない性格で、これが正義であり優しさだと決めたことには我が身の保身を一切考えず、他人のために動く男です。私は山田君に何度も大切なことを教えられ、助けられて参りました。
彼の存在は私にとっても掛け替えの無いものであり、あのような記事により売られた喧嘩は余すことなく買い占め、必ずや報復しようと思っております」
そう言ってニヤリと笑うと、会場が一瞬、恐怖で凍ったような空気になる。
2人のことばに、胸が熱くなる。川崎流を代表する2人からこんな賞賛を聞けて、俺は珍しい程の幸せ者だ。もうじゅうぶんだ。後は出来る限りのことをしなければ。俺はマイクを取った。
「山田優成です。今回の件では皆様をお騒がせし、多大なるご迷惑をお掛けして大変心苦しく思っております。この場をお借りして、深くお詫び申し上げます」
ここで俺は頭を下げた。フラッシュの音と光が攻めて来る。
「また、このような状況であるにも関わらず、この場に快く送り出して下さった皆様に、心より感謝致します。
私は決して、あの記事に書かれてあるような軽薄な行動を取った覚えはございません。恩師に対しても、岸一華さんに対しても、私なりに誠意を以て接して来たつもりです。それが今回このような記事が出たことで、私のみでなくご関係の大多数の皆様にご迷惑をお掛けすることになり、憤りを覚えております。
この件に関しましてご質問がございましたら、私は真摯に答えるつもりで伺いましたので、何卒、よろしくお願い申し上げます」
そうして報道陣の質問に移った。
「ではまず次代家元と山田さんの関係について伺います。2人は恋愛関係にあるのでしょうか」
凪先生が先に話した。
「後にも先にも、決してそのようなことはございません。私は山田本人を尊敬し、大切に思ってはおりますが、恋愛関係になったことはございません」
「それにしては親密な記事が載っていましたが」
「給湯室でキスをしていた、という文面がありましたが、私たちはそのようなことをしたことは一切ございません。また川崎流本家に給湯室はございません。あるのは台所です」
報道陣の笑い声が聞こえる。
「あの記事の抱き合っている写真は何だったんですか。どう見ても恋人のようにしか見えませんが」
「あれは演奏会で、山田が初めてトリで演奏をした後に舞台袖で撮られたものです。講師と呼ばれる、人を導く方だったら、分かって頂けるでしょう?自ら長きに渡って教えたお弟子さんが、晴れ舞台で想像以上の結果を出した直後に、舞台や客席の興奮も冷めやらない中で、抱き合って喜んではいけませんか?」
最後の方は声が詰まっていた。俺を守ろうとして、気を張っているんだろう。
「凪先生」
俺はマイクを取った。川崎さんが慌てて制止するような仕草を見せる。
「ここは本当のことを話しましょう」
「優成くん!」
凪先生が否定するように俺を呼ぶ。俺は微笑んで首を横に振った。もういいんだ。俺は貴女に嘘を吐かせたくない。
事前の打ち合わせでは、俺の想いが凪先生にあったことを話さぬように決めた。それでも、ここで凪先生に対して気持ちが無かった素振りを見せても、分かってしまうだろう。何より俺と凪先生の弾いた「龍歌」が、裸の俺の想いを語ったまま映像として残っている。
嘘をついて世間を欺けば、軽薄だと烙印を押されるのは俺だけじゃなく、一華や川崎流、家族や友人だ。
「私はその写真を撮られた頃、次代家元を女性として好きでしたが、これは完全な片想いでした。皆様が次代家元と私との仲を疑っているのなら、原因は私が長きに渡り凪先生に想いがあったことにあります」
また酷くフラッシュが攻撃する。俺の眼を潰す気か。
「無理やり手を出したってことですか」
「先ほど何もないと仰っていましたが、本当なんですか」
「長きに渡りとは、どのくらい片想いしていたんですか」
「はっきり想いは伝えたんでしょうか。どうやって振られたんですか」
「やっぱり二股をかけていたんでしょう」
報道陣が指名もされないまま大声で質問をぶつけ続け、会場は混乱に陥っている。会見中であるにも関わらず、隣で川崎さんが椅子の背の後ろに両手を回してもたれかかり、呆れて俺に向かいマイクを通さず言った。
「せっかく君を守ろうと思ったのに、君は馬鹿か」
「真実を話した方が、後々楽ですよ。馬鹿は貴方だ」
2人で顔を見合わせて笑った。俺は姿勢を正して続ける。
「先ほども申し上げました通り、次代家元の方に私への想いはありませんでした。私はあの時、演奏の後で思わず凪先生を抱き締めましたが、それ以上のことは誓ってしておりません」
喧騒の中で質問が相次ぐ。
「次代家元にお聞きします。山田さんの気持ちを知っていたんですか」
「はい。私は山田のことは大切に思っていて、それは今でもそうですが、その頃私は夫を既に愛していました」
「良かった、お飾りの夫じゃなくて」
「そんなこと、ある訳ない!」
川崎さんが茶化して言った言葉に、凪先生が本気で返し、会場中が笑いで包まれる。川崎さん、相当根に持っているな。これは、後が怖いぞ。
「次代家元が山田さんとの師弟関係を解消したのは、どうしてなんですか」
「それは私が望んだからです」
この質問は出ると踏んでいて、凪先生も準備をしていた。凪先生に守られるより前に、俺が話す。
「凪先生を忘れるために、凪先生から離れようと思ったので、相談して無理に家元の弟子にして頂きました」
「お払い箱にされた、ということですか」
「違います」
凪先生が冷静に言った。
「山田は私の一番弟子でした。先程も申し上げました通り、山田は大人になってから箏を学び、驚異的な能力であの演奏力を手に入れました。そんな愛弟子に更に高みに行って欲しいと思うのは、師として当然のことでしょう」
また声が詰まっている。全く俺は、この人には敵わない。
「それでは山田さん、岸一華さんについてはどうなんでしょう。二股をかけている、と書かれていますが」
「岸さんは私の恋人ですが、次代家元との写真が撮られた頃、私は岸さんに出逢ってもいませんでした」
「それは、現在、山田さんは次代家元ではなく、岸さんと恋愛関係にある、と受け取って良いんでしょうか」
「その通りです。私は岸一華さんを愛しています」
また目の前がフラッシュで白くなる。俺は眼を逸らさず、前を直視した。
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