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榧かや・かち栗くり・神の松・やま草の売り声もせはしく、
お笑い番組ばかりが流れるテレビ。
授業のない予備校。
平日なのに家にいる両親。
慌ただしい駅周辺。賑やかな商業施設。
光の灯らないビル。
「バーゲン」の文字で溢れるショッピングモール。
街中が、日本中が、世界中が2021年を終えようとしている。
2022年が目前に迫っている。まさに師走。
12月に入った途端に世の中が忙しくなることを毎年感じる。
いつの間にか年が明けているような、わたしだけ年を越せていないようなそんな感覚。
いつになったらわたしは実感をもって年を越せるのだろう。
今年もまた気がつけば年越しムードだったが、未だに年が変わるようには思えない。
昨日は大晦日イブ。
「イブ」というのはevening(夜)の古語であるevenが語源だと言われているので、「クリスマスイブ」はクリスマスの前日ではなくクリスマスの夜という意味である。よってこの表現は適切ではないのかもしれない。
だけど「イブ」という言葉の音が好きなので目をつぶっていただけたら、、、日本では伝わるだろうし。
話を戻して、大晦日イブ。
湯島天満宮へお参りに行き、浅草をぶらぶらし、ららぽーと新三郷にふらっと行き、そしてお台場へ夜景をみに行った。
やや売れっ子芸能人の地方ロケ無し東京限定版スケジュールであった。
やや売れっ子芸能人のスケジュールなんて知らないけど。
昨日の段階で決まっていた予定は湯島天満宮へのお参りだけだ。
一家揃ってフットワークが軽すぎてもはや羽でも生えているのか。
レッドブルの飲みすぎかも。
1滴たりとも飲んだことないけど。
机にむかってシャーペンを握る、「勉強」という言葉を聞けば誰しもが思い浮かべる典型的勉強を、朝起きて家を出るまでの約2時間と帰宅してお風呂に入るまでの15分やっただけ。
あとは車移動中や参拝列などで世界史の一問一答をやっていた。
右手に握っていたのはシャーペンではない。
赤シートだった。
典型的勉強が恋しい。典型的勉強がしたい。
そんなことを考えている自分に気がついた。
たしかにわたしは勉強が好きだ。そういった内容のnoteを書いたことがある。(そういった内容のnote、は一番下にリンクを貼っておきます。読んでいただけたら嬉しいです。)
早く自分の興味のあることに関する勉強を心ゆくまでしたいと思っている。
「大学受験」に向けた勉強を早く終わらせたいと思っていたはずだった。
「机にむかいたい」
「シャーペンを握りたい」
「じゃないと落ち着かない」
これでは勉強の奴隷も同然ではないか。
第一志望の大学に合格するために勉強しているのか、勉強をするために勉強をしているのか。それが問題だ。
……「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。」
二項対立的なことを思いつくとそれに付随して、ある作品のセリフを思い出してしまう。
ルネサンス期にイギリスで活躍した、かの有名な劇作家の作品だ。
そうそう、ルネサンスといえばネーデルラントではうんぬんかんぬん。
言っているそばからまた勉強のことだ。
もうだめかもしれない。手遅れかも。
勉強に支配されたわたしの2021年に表題をつけるとしたら【演劇人から勉強奴隷へのさらなる発展とその軌跡】だろうか。
(もちろん演劇人を貶しているのでもなく、勉強奴隷を称えているのでもない。)
2022年はどんな1年にしよう。どんなことを学ぼう。考えるだけでも楽しそうだ。
毎年抱負を語るもののこの位の時期には、いや1ヶ月もすれば忘れてしまう。
2021年の抱負だって忘却の彼方だ。そんなものなのだ。
だけど、懲りもせず抱負を考える。きっと明日にはこうなりたいだのなんだの言っているのだろう。そういうものだ。
あと5時間で新しい1年。
とりあえず年末気分を摂取するために蕎麦でも食べるか。
では良いお年を。