
グスコーブドリは、イーハトーヴの大きな森のなかに生まれました。
誕生日が嫌いだ。
わたしが生まれた日を嫌いだなんて、「じゃあ生まれたくなかったの?」と聞かれそうだけど、そうではない。
生まれてきて良かったか?と聞かれるとそういうわけでもないが。
ただ、誕生日が嫌なのだ。
ありがたいことに、わたしは環境に恵まれている。
だから、たくさんお祝いをしてもらえて、周りの人からの愛を一身に受けることができる。とても嬉しい日だ。
なのに、誕生日が嫌いだ。
ただ単に年齢を重ねることが怖いからではない。老いを怖いとは思っていない。今のところは。
誕生日が嫌いな理由を22歳の誕生日に考えてみる。
小さい頃から嫌いだったっけ。
いや、そうではなかった。
まだ無垢だったわたしは、誕生日を、美味しいケーキが食べられて、ほしいものがたくさん手に入り、大好きな人たちから手紙をもらえる日だと捉えていた。
毎日が誕生日ならいいのに、なんて思っていたような気がする。
手放しに喜べなくなったのはいつからだっけ。
具体的に思い当たる節は1つだけある。
恋人と別れる口実に、わたしの誕生日を使ったことだ。
高校2年生の頃、たいして好きでもなかった人と恋人でいたことがある。
詳しく説明すると長くなるので省略するが、その人とは勘違いで付き合うことになった。
彼に別れ話を切り出したとき、「お誕生日を祝ってくれなかったから」と告げてしまった。
誕生日を祝ってくれなかったことが決定打になったのは確かであった。だけど、別れたい理由なんて他にももっとたくさんあった。
わたしは「最初から好きじゃなかった」なんて鋭すぎる言葉を投げて、傷つけたくなかったのだ。
だけど、中途半端な優しさで別れを告げるのなら、もっとちゃんと悪者になるべきだった。
「彼を傷つけたくない」というのは自己保身の綺麗事にすぎない。
「彼のために」と言いながら自分のことを守っていただけだ。
悪い女になりたくなかっただけだ。
本当に優しい人ならちゃんと相手を傷つけて関係を終わらせるはずだ。
この別れ方は、少なくともわたしに呪いをかけた。
毎年9月12日には、嫌でも思い出してしまう。もう5年も前の話だ。
もちろん、未練があるわけではない。
恋人らしいことは何もしていない。手すら繋いだことがなかった。未練も残らない。
だけど、反省と後悔が襲ってくる。この呪いを解くにはまだまだ時間がかかりそう。どうやって解けば良いのかわからないが。
時間がどうにかしてくれるだろう。
誕生日が嫌いになってしまったのは、色々な経験をし、コミュニティが広がり、関わる人が増えたことによって、期待をしてしまうことも増えて、疲れるようになったからだとも思う。
「あの子はお祝いしてくれるだろうか」
「なにか言ってくれるだろうか」
「わたしはこういうお祝いをしたけど、どうお祝いしてくれるのだろう」
頭ではそんなことを考えてはいけないと思いつつも、どこかで期待してしまう自分がいる。
これは良くない期待だ。
そういえば、わたしは祝ったのに、友人はわたしの誕生日を祝ってくれなくてもやもやしてしまったこともある。
でも、お祝いなんて気持ちなのだから、わたしはわたしが祝いたいように祝っただけだ。その友人は友人でそうしたかったからそうしたのだろう。価値観の違いだろうな。
あらゆる情報が錯綜している社会にも疲れている。
「あの子はこんな風にお祝いしてもらってた」「こんなプレゼントをもらってた」
こんなことを考えてしまうようになったのはいつからだっけ。
人と比べても何ひとつ良いことはない。
人間関係において、とくに恋愛において、期待しないことがいちばんだと知っているのに、実際にそうすることはとても難しい。
誰かに期待することは、理想の押し付けになってしまいかねない。
それが叶わなかったときに、その人を責めてしまうことだってある。
それが分かっているから、誰かに期待するのをやめたい。
なのに、どうしても期待をしてしまいがちだ。
どうしたら人に期待をしなくなるのだろうか。22歳になったわたしは、人に期待することをやめられるのだろうか。
最近はどうも心が疲れているので、今日くらいは自分のことをちゃんと甘やかす日にしようと思う。
お誕生日おめでとうわたし。