“自らの死を考えること”、“しんどい”は、こころとからだのSOS。逃げることも大事ないっぽ
初めて記事を書きます。
最初はひきこもりさんやしんどいさんについて書こうかと思っていましたが、「#8月31日の夜に」というタグをみて、考えを変えました。
この記事で伝えたいことは、
・「しんどい」という気持ちは、だいじな気持ち。死にたい気持ちもだいじな気持ち
・「しんどい」「死にたい」に真正面から向かってはいけないときがある
・「今をやり過ごす」には、ふたつある
・「しんどい」「死にたい」がいなくなるまで
です。
私とほかの人のたくさんのしんどさ
はじめまして。上更千秋です。自己紹介がわりに、私が何をみてどんなふうに思っていきてきたかを、まずお話しします。
私は比較的恵まれた家庭に生まれ、かなり恵まれた環境で育ってきました。でも、いっぽうで、おうちに居場所がなかったり、安心できる場所がどこにもなかったり、今思うとずいぶんと酷いいじめに遭っていたり、後から思えば家庭環境もかなり極端な酷いものでした。大学にもいけなくなったり、精神的に辛い時期が続き、長いことひきこもり状態でした。
身体が弱かったり、マイノリティであることが大した問題じゃなく思えるのは、恵まれていたからか、他に苦しいことがあったからか、どちらかはわかりません。
多くのひとのように大学等に通って卒業して就職して…はできずに長く時間が経ちました。いまはようやく、はんぶんひきこもりながら、少しずつ、就職に向けて準備していくことができるようになりました。
そんな私がみてきたものは母や家族、周りのいろんなお友達、知人の苦しさでした。“誰かが目の前で辛い思いをしているのが私は何より辛い”、物心ついた頃からそう思って生きてきました。私自身が虐待されていても、酷いいじめを受けていても、それは大したことではないように思えていました。
だって私は生きているじゃないか、しんどいっていったってなんとかなってるし。そう思い続けた結果、死にたいと強く思い、いつ死のうか、あそこだったら死ねるなぁ、こうやれば死ねるなぁ、明日やろう…死にたいと思い続ける日々を送ることになりました。死にたい強い気持ちは、強くなったり、やりすごすことができたりしながら、最近までそれは続き、今でもたまに顔を出します。
私がいま生きているのは、たまたま、運や人の縁など恵まれていたことと、現実逃避をして本に没頭していたこと、たぶんもう一つ鍵があるような気がしますが、ほんとうに、運がよかったのです。
そんな私が、書いています。
「しんどい」という気持ちは、だいじな気持ち。「死にたい」気持ちもだいじな気持ち
そんな私が思うのは、どんな人でも死にたいという気持ち、しんどいという気持ちはなによりも大事にしてほしい、ということです。しんどいというのは、からだやこころに負担がかかっているサインです。死にたい気持ちはそれだけこころとからだが悲鳴を上げている証拠です。痛いが身体的なサインなら、しんどいは精神的なサインです。多少ならば気にせず日常をやっていけますし、知らない間にしんどくなっていたりしますが、しんどいが重なったり、しんどいが大きすぎると、からだやこころが壊れます。身体の臓器も壊れますし、こころの働きも壊れていきます。だから、しんどい気持ちは大切なサインです。死にたい気持ちはこころとからだがの限界サインです。まずはそのサインに気づけたことがいちばん大切なことなのです。そして、死にたい・しんどい気持ちをだいじにして、
・その「しんどい」は、あなたのこころや身体にとって、どのくらい大きいか。普段の自分のペースを崩さないか
・その「しんどい」は、短時間で終わって繰り返さない、一時的なものか、長期間続くものか
・その「しんどい」「死にたい」「死にたい背景」は、向き合わなくちゃいけないものか
を考えてほしいです。
「しんどい」「死にたい」に真正面から向かってはいけないときがある
いま現在しんどい状態の人にとって、我慢するか、どうにかして耐えるか、なにか方法を考えるかは、難しい問題です。まして死にたい気持ちを抱えていくのはとても辛く、死にたい気持ちの理由・背景もあるのだから、当然、とても難しいのです。
そもそも、しんどいことが、自分のこころや身体にとって、どのくらい大きいものか。実はこれは難しいのです。定規かなにかで測れないものね。でも、逆に、「しんどいことがあったとき、回復するまでどのくらい時間やお金苦労がかかるか」、「普段の自分のペースがどのくらい乱れるか」で大きさを測ることができます(例: ホームズ-レイのライフイベント尺度)。どれくらいこころやからだが影響されるかで、しんどさを判断できるのです。大きなしんどいことがあると、日常生活に影響が出ますし、人生にも影響が出ます。身体にも影響が出ます。日常生活に影響がないような小さなしんどさにみえても、積み重なると大きくなりますし、たくさん重なることもよくあることです(ほんとうによくあることです!)。しんどいことで、普段の生活や自分の身体、人生に影響がでるのもとても苦しく、理不尽なことです。だから、「しんどい気持ちをだいじにして、小さいしんどいのうちになんとかしちゃう」のがベストなのです。逆に言えば、たぶんそれがうまくできないことのほうが圧倒的に多いのだけれど、大切なことです。
さて、小さいしんどいで終わらない、大きなしんどさについてです。大きな「しんどさ」は辛いですから、当然どうにかしたい…わけですが、「どうにかなるものならどうにかなってる」、「すでにどうにもならなくなっちゃった」「気がついたら大変なことに」という場合が多いのではないでしょうか。死にたい気持ちはそういうサインの一つです。その上いよいよ追い詰められていったりする。そういうとき、どうしたらいいのでしょうか。
しんどさがどうにもならないとき、つまり、しんどさにもがいているとき、死にたいと願っているとき、どうしたらいいのか、難しい問題です。本人は切羽詰まっています。ただやり過ごせ、耐えろというのも酷い、事情を知らない外野にあれこれ言われても、ただでさえしんどいなかで右往左往してしまいます。しんどいことに真正面を向いても、つまり、しんどさの原因を推理して、対策を考えようとしても、もがく腕が宙をつかむだけ。本人にもどうやっても苦しさの原因や解決がわからない、誰にもわからないこともとても多いです。本人にできないことを他人にはどうにもできないし、絶対わかりっこないことを他人にはわかりっこないのです。
ひとりではどうにもできない、他人にもどうにもできない、そういうとき、しんどいとき、死にたいと思うとき、真正面から向き合わないほうがいいのです。
学校だって行かなくていい。行かない方がいい場合もあるのです。行くべき時は今じゃない、別のときです。勉強だってしなくていい。しないほうがいい時だってあるのです。勉強するときは今じゃない、別のときです。おうちにだっていなくてもいいんです。しんどい、辛いところはいるべきところじゃない。しんどいこと、辛いことは今考えるべきことじゃない。いるべきところは別にある。考えるべきタイミングも別にあるのです。こころとからだを守るために逃げなくちゃいけない時があるんです。辛いことしんどいことから逃げないといけない時があるんです。逃げることじたい、とても難しいことです。逃げられなくてもいいのです。せめて、真正面から向き合わないようにしてほしい。現実逃避も逃げるのも、こころとからだをまもる大切な方法ですし、難しい現実に立ち向かう大切な方法の一つなのです。
同時に、他になにもできないわけじゃありません。できることもあります。
「今をやり過ごす」には、ふたつある
耐えるのもきつい、さりとて、逃げても解決は難しい、逃げるのも難しい。死にたい気持ちが募ってどうしたいいかわからない。追い詰められていく…どうしたらいいのでしょうか。
ひとつのおすすめは誰かを頼ることです。相談してもいいし、愚痴ってもいいし、他愛のない話をしてもいい。しんどいことへのプロフェッショナルもいます。お医者さまや心理カウンセラーさんたちです。本人にもわかりっこないこと、絶対他人にわかりっこないことでも、時間はかかりますが、ていねいに寄り添って、糸口を少しずつさがし、ひとつひとつ手当てして、しんどさや苦しさや、死にたい気持ちをひとつひとつ少しずつ楽にしていって、上手に生きていくことに繋げていくことができます。
ただ、誰を頼るにしても、頼られる側の得意不得意や相性もあります。プロの先生方でも得意不得意や相性もあるくらいです。その人に頼ることがうまくいかない・しんどくなるようなら、別の方、その人でもだめならまた別の方と、探してみてください(中には悪い人もいて、ほんとに酷いのですが、大人のだめなところですね)。
得意不得意や相性もあれば、中には悪い人もいて、そのうえ、頼り方も難しい。そのため、頼る先は複数あるとよりよいです。同時に複数の人頼ったって構いやしないのです。頼る先を複数つくっていいし、そのほうがいいのです。
残念なことに、まだ社会の中には、頼る先は多く用意されていません。頼る人へつながる方法も多くないのが現状です。そういう現状をよくするため、いろんな人がいろんな立場で試行錯誤をしながら増やそう増やそうとしている最中なんです。ですが、現状でも決して少なくはない。たくさんの方が頼られるのを待っています。なんでもいい、気持ちをぶつけるだけでもいい、全然関係のないことをいうのでもいいのです。自分が頼られたことで、誰かがほんのいっときでも楽になったら、ほんの少しでも前に進めたら、それだけですごく嬉しい、という人が実はたくさんいるのです。
でも、頼ることはとても難しいことです。自分でもよくわからないことは相談しづらいし、知ってる人にも言いづらいこともあります。ひとに言えていないことを知らない人に相談するのも当然とっっても難しいことです。追い詰められた状態ではなおさら、うまく話せるはずがありません。
頼ることは、経験豊富なご年配の方でも難しいことです。若い年代では特に難しい。特に10代20代のかたはこころの成長の段階(思春期・青年期の発達課題)もあって、特に難しいのです。
誰に何をどう話そう。それは言えなくても大丈夫です。聞くのが上手な人はたくさんいます。言いたくないことは言わなくて大丈夫です。言わなくちゃいけないことでも言わなくても大丈夫です。なんでもいいのです。
「水を飲ませてください」「犬見せてもらっていいですか」、病院でも「看護師さんはいますか」「いまはここで静かにいさせてください」「よくわからないんです。でも爆発しそうなんです」「どうしたらいいかわからないんです」
どれをいきなり言ってもいいのです。何も話さなくてもいいのです。もちろん話してもいいのです。関係ない話をしてもいいのです。なぜならそれがあなたに必要なことだから。話すべきことには、それを話すべきタイミングがあります。話したくないとき、うまく話せないときはまだそのときではないのです。その時まで別の話をしても、別のことをしてもいいのです。でも、うまく話を聞いてくれて、話せることももちろんあります。受け止め理解してもらえることもあります。相手はできるだけ上手に話を聞き、うまく理解して受け止めて、少しでもあなたが楽になっていくように手伝いをしたいと心底願っているのです。
頼られることを待っているひとは、たくさんいます。プロのスキルを持っている人もいればそうじゃない人もいます。意外と身近にいることもあります。そういうあなたに頼られることに備えてしずかに待っている方を探しましょう。病院、保健室、カウンセリングルーム、相談室、保健相談所…これらは、そういう大人がいるところです。図書館も居場所になるでしょう。習い事も居場所になるかもしれません。いろんなところのいろんな人をきっかけに頼っていきましょう。いろんな大人、他の先生、誰か信頼できそうな先輩、心配してそうな後輩、お友達、それぞれに違う頼り方をすることもできますし、大事なことです。
そうして、すこしずつ、誰かを頼りながら、しんどさの絡まった糸をほぐして、楽にしていくのです。
そう、しんどさは楽にできるのです。死にたい気持ちは、薄めていって、限りなくゼロにできるのです。
もちろん、解決の難しいしんどさ、苦しさというのもあります。障害と付き合っていかないといけなかったり、しんどさと付き合っていかないといかなかったりするひともいます。それでも“しんどい”、“辛い”と少しずつ上手に付き合えるようになります。“しんどい”を抱えながら、少しずつ生きやすくしていって、想像できないくらい楽に生きられるようにできるのです。
そのための方法論を、経験を、知見を、プロは持っています。いろんなひとに頼って、より楽に、より生きやすく、生きることができるのです。
私は、誰にも頼れずにいました。誰かを頼れるようになるまで、すごく時間がかかりました、私のしんどさの裏になにがあるか、問題が何かわかるまで、もっとたくさん時間がかかりました。
私自身カウンセリングに通い始めた頃は、ぜんぜん関係ないことばかり話していました。でもそうして、カウンセラさんに私を知ってもらい、カウンセラさんとの信頼関係ができて、徐々にだいじなことも話せるようになりました。カウンセラさんのほかにも、信頼できる複数のお医者さま、いろんなことを話せる複数のお友達ができて、こころとからだの状態がよくなる方向に、少しずつ、少しずつに向いていきました。
もうひとつは、「少しずつだけど解決に向かっているかもしれない、前に進んでいるかもしれない何かを見つけて肯定する」ことです。
「コウペンちゃん」を知っていますか。日常生活のほんとうに些細な大したことじゃないことを褒めてくれるペンギンさんです。多くの人がコウペンちゃんの「お風呂に入ってえらい!」とか「はみがきできてえらい!」に癒され、多かれ少なかれ支えられているようです。みんな大変なんだなぁと思って、ちょっと私は圧倒されてしまいます。
私は先日NHKの番組で取材に応じ、収録に参加させていただきました。その際の取材をもとに書かれたWEB記事のひとつに「コンビニへの1000階段」があります。力作です。この中で触れられていますが、当事者LINEグループの中で、ある方が「フードコートでラーメンを食べられた」ことを、私は敢えて祝い喜び、背中を押す発言をしました。“フードコートでラーメンを食べる”がとっても難しいこともあると知っているからですが、もうひとつ、「ちょっとしたことでもできたことや、いっぽ進んだことを喜び」、しんどくつらいなかでも、「確実にできたなにか探し」を後押ししたかったのです。
しんどい生活でも、なにもできない生活でも、ちょっとしたなにか、なんでもいいのです、ほんとうに些細なことでいいのです、「ちょっとなにかできたこと」を探すと、自己肯定感・自己効力感のちょっとした支えになるのです。ちりもつもればなんとやらで意外と効きます。前向き言葉に変換するという言い方をする方もいます。
「カーテンから外をのぞくことができた」「おふろにはいれた」「きょうもあさごはんたべたぞー」「学校に行かずに心とからだを休めるをした」でもなんでもいいのです。
それで人間がだめになることはありません。いけないことなんじゃないか、情けないことなんじゃないかと思いがちですが、決してそんなことはありません。むしろ、自分をほめるという難しい、けれどとてもだいじなことなのです。
「しんどい」「死にたい」がいなくなるまで
しんどい状態が楽になるまで、どれだけかかるでしょう。死にたいと願う状態がなくなるまで、いったいどれだけかかるのでしょう。無限にも思えます。時間が経っていき、他のみんなとの差に苦しむこともあります。こんなふうになっていなければとどうにもならない気持ちを抱えることもあります。
かくいう私もまだ苦しんでいます。でも、私は前とは違うのです。それは「確実に良くなった実感と確信がある」からです。
私は、お医者さまに通い始めてしばらくずっと、お医者さまやカウンセラさんに、何度も何度もくりかえし訴え尋ねました。嫌というほど何度も何度も訴え、問い詰めました。
「死にたい気持ちが強くてつらい、死にたい」「ほんとうにこの状況、しんどさ、よくなるの?」
これに対してお返事はいろいろありましたが、いつか「結局のところどうなんですか」と聞いたことがありました。なかば無理矢理本音を聞き出そうとしたのです。先生は困った顔をして、なかば泣きそうになりながら答えを絞り出しました。
「あなたにはよくなっていく力がある。ぼくらは、あなたによくなっていく力があると信じている。誰にでもその力はある。ぼくらはそう信じている。そう信じて、目の前にいる。だから、そういうぼくらを信じて」
私が確実な足がかりを見つけた瞬間でした。
きけば心理カウンセラさんやお医者さま、支援者の多くの方は、そういう実感と信念、確信をもって相手に接しているといいます。確かにそうじゃなきゃ、誰かを助けようなんてしないでしょうし、その上でたくさんのひとの助けてきた多くの人の言葉だから、信じられると思います。
実際に、物事はすぐに劇的に変わったりはなかなかしません。世の中残酷にできていると思ってしまいます。
でも、ちょっとしたきっかけや、ちょっとした一歩の積み重ねで、変わっていくものです。
今はそう思えなくても、いつか辛かったなと思えるようにきっとなれます。必ずそういう時がきます。
そのために、いろんな人の力を借り、頼りながら、少しずつ、状況をよくしていく、そして、少しでも絶望しないように、「ちょっとのなにかできたこと」「すこしのよかったこと」を、なんでもいいので確認していく。
そうしていくと、道のりは辛くても、「ここまできたんだなぁ」と思えるときがきます。
すべての悩める人に、幸あれ。
(写真は国際基督教大学構内です。こんなところで学べるなんて、天国でしょ。でもね、私は入ったけど通えなかったんだ。悔しいな。それでも、この景色は綺麗です)
R1/8/23 15:23 加筆修正
R1/8/24 13:10 加筆
ここで書いたことは、10代のかた20代のかたに限ったことではありません。くるしさのあるすべての人にも通用する、だいじなことだとぜひ考えてください。
R1/9/4 13:10 自殺についてを盛り込み、加筆修正
R1/9/24 加筆修正
皆さまのお心は私の気力になります。