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(辞書を引用)
止観とは、仏教の瞑想の主なものである。サンスクリット語から奢摩他・毘鉢舎那と音写されることもある。 仏教では瞑想を止と観の二つに大別する。
止とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住することである。
また観とは、不動の心が智慧のはたらきとなって、事物を真理に即して正しく観察することである。
止観する生活って、なかなか意識してないと…出来ない事もある。
◉前向きになるのも練習があってこそかもしれない。大人になると、ハッパかけたり、背中を押してくれたり、お尻をポンと軽く叩いて諭してくれる訳でもない。
※大人になると自分自身で気づいて行かないといけない。
今はネットや情報社会で自分自身の拠り所や何かの趣味をらひたすら探せるのだ。
ただ、令和だから…昭和だから…平成だったから…と時代の流れにするつもりは無いが…
人は変化し続けるのだと理解できた。
子供も最初から何でも出来ない、周りの環境や見て覚える、経験してこそ出来たり、苦手意識から少しずつ普通にこなせる様になってきた。自分の弱さを知る事は大切だし、成長過程はみんな、変化し続ける。
わたしは自転車は親についてもらい教えてもらった事がない、昔は昭和時代は、粗大ゴミでさえも、宝の山でみんな交換してる人もいた。捨ててるものでも、宝になるのだ。人から見たらゴミでも、他人から見れば宝の持ち腐れになる。
無い所から練習したり、誰かから借りて練習したものだ。見て覚える方が向いていた。
昭和時代は、案外とスパルタなのかもしれないが、人がついて何かを教えてくれるとか、指示待ちでは何も始まらない時代だった。
何かの修行や何かの事を覚える時は、人の行動をみて、習得していた気がする。
先生にも、センスがあり、教えてくれる人が、スゴく分かりやすい人もいれば、全然、専門用語過ぎてアタマに入らねー(笑)という事もあった。
元々、人に教えてもらうと言う過程は、人によっては、特性・持病などで、出来ない人もいるからね。
(世間の事件との私感と主観の考察)気分を害したり、難解な場合は、スルーでお願いします。
案外と世間は分からない事件も多いのだ、こんなエリートや中流家庭でも、こういう事があるんだなと、親や生活苦な訳でも無いのだが、人は貧富の差や家柄は関係ない様だ。病むときは、病むし、人を選ばない。
人は事件が起これば、世間やマスメディアは悪人扱いするが、その加害者は被害者なのかもしれない…世間は、見落としてる事も多い。
一時期ブームになった隣家に爆音を鳴らして、◉◉越し◉◉と隣に向かって何かを大声で話すおばさんがいたが、テレビ&マスコミは、この人が悪者に映る様に仕組んでいたが…本当は、このおばさんは被害者だと聞いた事がある。
公に、ならないのは、ある団体が隠蔽したのではないかと思われる。
ある宗◉団体が近隣に住んでいて、このおばさんは、ある地域に、家庭の事情で引越してきた。家族の介護など、献身的に行っていたら、近隣住民の数人から◉教団体のお誘いがあったそうだ。
家族の献身的な介護を数人していて、他の活動まで、余裕が無かったそうだ。すごく、かぞく思いの良い、奥さんだったそうだ。
丁重に断った事が仇になり、宗◉団体の所属する近隣の数人から嫌がらせをされたそうだ。詳細は省くが、世の中、断るだけでもコワイ話だな。
衣食住してる家族に被害が及んだそうだ。介護か仕事関連でも引越す場所は、この事件をみて、慎重になる。
マスコミやテレビ受けでは、そのおばさんが加害者に見える様な構成だった、そのおばさんは段々と病んだだろうな。家族を守りたかっただけなのだろう(・・;)
◉通り魔殺人事件も裏側には親子(母)関係とエリート教育の失敗がきてる
通り魔殺人事件は許されないし、見ず知らずの人が被害に遭ってるし、何ら無関係も良い話ではある。援護する気は無いが…その様に至る背景を考察してみた。
中流家庭で親からある程度の衣食住には困らない生活があったのになぜ!?
母親からのエリート歪んだ教育と躾が異常
⦿ご飯は新聞紙にぶちまける≫弟から見ても異様な母親の躾
自己嫌悪&自己受容&肯定感を育む過程が、うまくバランスが取れてなかったのだろう。
⦿偏差値・テストと点数ばかりで勉強漬けの毎日で満点・高得点しか、親は許してくれず。結果ばかりを求められ、少しの点数・過程をほめられず。息抜きがない。
寄り添ったり、その子の傾向を調べて、学習の中だるみ、スランプを乗り越える事に、よりそってあげれたら、子供も頑張れたかもしれない。全てに、子供任せでは、息抜きがない。
1人孤独な勉強と親とのコミュニケーションが排他的だったのだろう。友達と共有する環境が少なかったのかも。
思春期特有のコミュニケーションや面白い趣味や家族の団欒・うまく取れない環境だったのかも、自由が無いと遊びを知らない機械的な子供になってしまう。
※友達は親の代わりにはなれないから、難しい。親がある程度は、気づいてあげてほしいが、それが分かる位なら、毒親にはならない。世間は、広いし、同じ悩みがある人もいると思う。
その子の特性・子供の向き不向き、休憩、遊びも必要に応じて勉強だけでは、楽しみがない。人としてのコミュニケーション道徳教育・思春期なりの性教育や自慰行為は男性にとっては、死活問題でもある。
⦿思春期&青年期の男女への興味や性教育である、自慰行為も教えられてないか興味すら抱ける環境で無かったのかも、友達とのコミュニケーションや遊び・ツラさを共有出来たり、他にストレス発散する方向性があれば良かったが…(・・;)マイナス固定思考に縛られていたのだろう。
勉強なんてクソ喰らえ!と家出する位の気持ちになれたら良かったのかもしれないが…
そういう、自由さを教えてもらえず、常に虚無感と孤独で不安しかもらえて無い訳だから、子供にとっては、見捨てられる恐怖が強かったのかもしれない。冒険する事も出来ず、自由を知らなかったのかもしれない。
⦿派遣切りにあい、計画的な通り魔事件を起こした。
⦿弟との兄弟格差ができ、弟からみても、母からの兄への躾教育は異常だったらしい。
この毒親から何かを見出そうと出来ず、自暴自棄になり、周りが見えなくなったのだろう。親に対して、反抗出来ない様な毒親だったのかも。手応えが見えない親もいる。
長男というだけでエリート教育を押し付けられ、親のしたくもないレールと言うのは下手すれば生きながら死んでいるのと同じである。虚無感と孤独感がつきまとい、人生面白くない。
この通り魔事件後、弟は、縁談も決まっていたのに、自殺をしている。
人生選択肢はあっても、その人の環境・性格もあったり、どこで歯車が狂うか分からない。本当に、親の教育とは、考えさせられる事件に思う。
(まとめ)
世の中の憂いばかりを見ては悲しみしか生まないが、その悲しみの連鎖を断ち切るか、再犯しない取り組みが必要に思う。
被害者だから病院へセラピーへと…加害者にならない様に。
加害者が再犯しない環境づくりも大切に思う。
自分自身を止観する事は大切に思う。
自分の人生は、人任せにし過ぎては、いけないと理解してきたし、痛感した。
親でも子の人生を決めつけ過ぎたり、根拠のない将来の約束はしない。見えない未来を必要以上に与えすぎたら、子供は冒険もしにくくなる。いまある幸せと出来る事から目を向ける。
自分自身が幸せになり、自分から切り拓くと好転していける。
スモールステップで、一気に高みを目指さない。自分の力量を知る。
事件の被害者・加害者になるより、同じ傷ついた人を1人救うだけでも、世間に生産性を産むかもしれない。
もし、誰かを救えなくても、自分がそうならない様な環境と、なってしまった時は、我にかえる。
みなさんの人生がどこに向くかは自分次第なのかもしれません。
本当の人生の生き難さに直面したら、他者から内面から見出すのではなく、自分の内面から知る事なのかもしれません。
ゲシュタルトの祈りをオススメします。
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