記録のキロク
最近になって、ようやく読書ノートが記録としての役割を果たしたように感じたので、それをまた記録しておくことにする。というのも、同じ人間が考えたこととは思えない感想が過去に記録されてあったというだけのことなのだけど。
読書ノートの本来の効果としては、そのときに読んで感じたことをなるべく新鮮なまま保つ、というもので、わたしの場合もそれぞれの本の感想や意見がゴリゴリと綴られているのだけれど、その中のひとつに、どうしても見逃せないようなことが書かれてあって目を疑ったのだった。
それは川上未映子の『乳と卵』の記録で、どうやら当時のわたしには、てんで緑子の心情が理解できていない様子だった。
理解できないにしても、もっと考えようがあるだろうに、わたしはなぜかとても偉そうに緑子に物申していて、それを読んだ現在のわたしは、当時のわたしをどこかへ埋めてやりたいと思った。
わたしの読書ノートは、完全なる個人的記録なので、その中の文章をここに引いてくるというのはしたくないのでしないのだけど、そこには「緑子はまだ子どもだからわからないのだ」というようなことが書かれてあった。
こわいと思った。
他にもいろいろ的外れな感想を並べたくっていて、気持ちが悪かった。
しかし、そのすぐ後に『夏物語』の記録があったので、そこをひとつの転換期としてわたしの中での世界や基準に変化があったのだと思う。
就活のためにだらだらとやっている自己分析の、何かヒントにならないかしらとノートをパラパラしていると、少し前の自分の意見とさえ喧嘩になってしまうのだから、人と分かりあうなんてことはもう、この上なく不可能なことなんではないの、と恐ろしくなる。分かってほしい、と思うことはあるけれど、最近は、分からないならさようなら、という考え方にシフトしつつあって、でも就活ではそれはだめなので難しい。
今は、大好きな綿矢りさの日記『あのころなにしてた?』を読んでいる最中で、すでに忘れ始めているコロナによる社会と生活の変化の記録が順々に綴られていて果てしない気持ちになる。
そういえばそうだった、と思いながら読んでいると、やっぱり思い出すだけでは不十分な、当時にしか感じ得なかった「ほんとの感情」みたいなものが冷凍保存されているようで面白い。
何度も書いている通り、わたしは日記を続けられない星の生まれなので、気まぐれな記録しか残すことができないが、こういう風に、好きな人が記録したものを順を追って読んでいけることの幸せを噛みしめている。
書いてあることは、コロナ禍の鬱々とした展開の記録と、それに伴う感情の変化で、内容としては重だるく息苦しいのだけど、記録の面白さというか、記録っていいよね、と思える読みものであった。(まだ読んでいる最中だけれど、)
他に今読んでいるものは一穂ミチの『スモールワールズ』で、これについてもまた今度書けたらいいなと思っている。本谷有希子の『嵐のピクニック』のことも書きたいし。
もう2月も終わっていってしまう。どんどん置いていかれているような心地だけれど、振り落とされないように、いや、振り落とされても大丈夫なように、ときどき記録をしながら進んでいけたらいいなぁという記録。
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