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箱の中のわたし

午後4時のわたしは決まって機嫌が悪い。
そろそろ電気をつけないと手元が見にくくなってくる感じで、なんだか視界が狭まる。世界の天井がとても低くなっているような、そんな感じがして窮屈。頭も痛い。目も疲れているようで、閉じるとじんわり涙が滲みてくる。
母が何か言うけれど、わたしの気分は最悪なので適当に「うん」とも「へぇ」ともつかない言葉を発して流す。昨日、あんなにわたしの昔話に付き合わせておいてそれはないんじゃないの、ともうひとりのわたしが言うけれど、どうにも今楽しくおしゃべりするのは気が進まなくて難しい。

午後4時の話をしていたのは誰だっけ。
川上未映子。穂村弘もしていたっけ。

読書ノートをパラパラとやるけれど見つからず。代わりに目についた未映子さんのエッセイの中の素敵な文章を引いておく。

人生とかいうとなんか大げさであるけれども、いわゆる四角を無限に積みあげるようなこの日常のこの質こそが人生なのであって、思えば生まれてこのかた人生にいなかったことなんて一瞬もないのであって、この劇場めいたいっさいのなんやかや、誰が用意したのかなあなんてこれもまたぼんやりとしてしまう。暇だね。

こんなとき、人ってどこを生きてるんだろうなって窓を見れば、低く膨らんだ雨雲の裂け目を指で確かめてからかかとをそっと滑りこませる。

   ───川上未映子『オモロマンティック・
             ボム!』p.117, 119
思いだすということは、つねに切ないことではないですか。切なさも鋭くなると、ときどきうっかり傷になったり血がでたりもするものなので、つねに危険を孕むのです。それも若いころならいいのだけれど、や、思い出はいつだってこちらの変化や事情なんておかまいなしにやってくるから思い出なので、だから生きているあいだは時間にかんすることについては何もかも、きっともう、どうしようもないというのが本当のところなのでしょう。
     ───川上未映子『発光地帯』p.165


引用するにあたって自分のノートだけでなくしっかり本を取ってきて確認したのだけど、まぁ誤表記していた。写すならちゃんと写そうね。

自己分析のために昔のいろいろを思い出す、という作業をしているのだけど、なかなか面倒な人間関係だったり忙しい毎日だったりが順々に解凍されていって、変な笑いが出てしまう。母はわたしが一聞いたら十、当時のことを話してくれて、よくそんなことまで覚えているな、と思う。そりゃあ覚えてるよ、とあっけらかんと言われてわたし、たしかに一本道を辿ってきたことを証明されたような気持ちになって、不思議な感じ。
忘れてしまっている過去もぜんぶ、わたしのものなのだった。「四角を積みあげる。」




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