197.わたしの価値とわたしの仕事は関係ない
ほんとうはきのうが小学校の運動会だったのだけど、雨で延期になって、本日無事に実施ということで見にいく。といってもコロナ対策で、学年ごとの「表現(ダンス)」だけの実施だったので、ちょこっと散歩がてら出かけて、自分の子どもの出番だけ数分見て、さっと帰ってくるというスタイル。
早起きして作る三段のお弁当もなし、並んで席取りすることもなく、楽で人が少ないからいいところでじっくり見られたけど、運動会という感じではないね。まあいいけど、あのザ・運動会!というある種の様式美が今となってはなつかしい。
また来年つくりたいな、から揚げがぎゅうぎゅうに詰まった、カラフルな三段のお弁当。夏のように暑いよく晴れた運動会の日に、氷を入れて冷やした麺つゆを水筒に入れて、小さな紙コップに小分けに移して、その三段のお弁当のいちばん下の段に入っているそうめんを、チェックのレジャーシートに座ってみんなで食べるととてもおいしい。
そんな家族なんて、そんな幸せなんて、資本主義の経済社会を回すために、メディアに洗脳されて押しつけられた絵空事なのかもしれないなってたまに思うけど、そのまぶしい風景はやっぱりわたしの人生の中で、とても大切な宝物だ。
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作家のひと。よくそのひとが書くものを読んでいる。たまに研ぎ澄まされた方向に進みすぎるきらいがあって、そんなときかすかにそのひとの傲慢さのようなものを感じるけれど、書かれたものはやっぱりそのひとにしか書けない、なんともいえない静謐さと切実さがあるので、読むたびに心惹かれてしまう。
そのひとの暮らし方が好きなんだけれど、どう考えても仕事をしている、働いている匂いがしない。やりたいことは決まっているので、それを突きつめている感じ。
いろいろ考えてみたんだけれど、結論、そのひとは経済的自由人という立場なのだろうなと思った。作家さんだし、もちろん印税も入ってくるのだろうけれど、それにしてもまあ、不労所得のある経済的自由人ってことかな、と。
お金のことってよく考えてしまう。性のことも考えるけど、お金のこともよく考える。経済のこと。
主婦に対してなぜそんなに抵抗感があったのかというと、たぶんどこかで「誰のおかげで飯が食えると思ってるんだ」的な、そういう発言を聞いて、わたしのなにかが反応し「わたしの人生で、そんなことは誰にも言わせるもんか」という謎の負けん気が発揮されたのだと思う(ちなみに名誉のために言っておくけれど、うちの父親のセリフではない)。
そんなこと絶対に男に言わせないために、わたしは自分の食い扶持は自分で確保しよう。そうしなくてはならない、と思ったんだね。それって、自分の存在価値や発言権、尊厳の部分と経済をつないでしまった最初の記憶だ。
稼いでいれば、対等だ、と。だったら稼いでやろうじゃない。誰にも負けないくらいに。
前述の、わたしの好きな作家のひとは、これからは生活や暮らすということをやっていく、と書いていた。そのひとの書くことは、自分の感じていることとシンクロしていることが多い。わたしも、主婦的な生き方への抵抗を手放して、さあなにをしていくのか、と考えたとき、
ああ、俺は名もなき生活者として誇り高く生きるんだぜ。
それがほんとうだぜ。それだけがほんとうなんだぜ。
と、なぜかロックな口調で思った。
わたしは仕事、してもしなくてもどっちでもいいんだ。
わたしの価値とわたしの仕事は関係ない。
わたしの価値とわたしの経済状態は関係ない。
わたしには提供するサービスがあり、それは参加者にとって有益であり、そしてわたしの利益になるというのは歴然たる事実だけれど、それもわたしの価値とはやっぱり関係がない。
わたしはわたしの心から納得のいく、生活と暮らしをして、それをただ観て、感じて、つづっていきたいだけなんだ。
いつか仕事でドカンと成功して、経済的自由人になってやる〜!と、比較的マジメにがんばってきた日々だったけれど(瞬間最大風速的には成功したけどw)、実は今まさに、経済的自由人として「生活すること」「暮らすこと」に軸足を移そうとしているじゃない?という気がしている。
生活を、するのだ。
だって、それだけがほんとうなんだぜ。
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ライティング・ライフ・プロジェクト、第4期は満席となりました。関心を寄せてくださったみなさま、ほんとうにありがとうございました。
第5期は、今月メルマガにて募集いたします。(そろそろです...)*