0863.傷とは、光があなたの中に入り込んでくる場所
noteって意外と「往復書簡形式」の記事を見かけますよね。わたしはね、あれ、あまり好きじゃないんです。あとね、セミナーやワークショップなどでのW講師方式も、あまり好きじゃない。
なんだろうな、自己顕示欲っていうか、自分を見てほしい、という気持ちが、きっとひとよりも強いからなのだろうな、と思います。
目立ちたい、というよりは、目の前のひととつながって、「わたし、存在しているよね」と確かめ合えるようなことを望んでいるのかな。
往復書簡やW講師は、わたしはどこか「疎外感」を感じてしまうのかもしれません。
あなたにはそのひとがいる。そのひとにもあなたがいる。
じゃあ、わたしはいらないよね? という、気持ちになりやすい。
これは完全にわたしの「思考のクセ」でしかない、ということは、いい加減わかっている。けれど、わかっているからといってそのクセが手放せるかというと、そうでもない、という経験をきっとだれもがこの地球上でしているんだろうな、と思う。
わたしの経験からいって、……自分ごととして認めるのは苦痛なんだけど 笑、たぶんね、思考のクセは手放せるのだと思います。じゃあなんで手放せないのか、というと、手放したくないから。
その思考と自分の存在が、もうぴったりと癒着しているので、手放してしまったらアイデンティティーの崩壊になるし、「わたしの物語」というものが崩れてしまうからです。
わたしの物語。わたしの神話。わたしをここまで連れてきた、わたしがわたしであることの証明。
それは、多くの場合は「傷」の物語だから。
「さみしかったわたし」の物語。
でもそのことについて長く深く言語化するためには、もうすこし時間が必要な気がしているので今日は詳しく書かなくていいかなっという感じ。
おとといの、土曜日の合宿の夜にショックを受けた出来事と、そのシーンがずっと頭から離れなくて、まんまと「感情の奴隷」となってしまってびっくりしたよ。
感情は、感じ切って味わって、自然にとかしていくのがセオリーなのだけれど、そういう解放のテクニックはいくつも知っているのだけれど、「そんな解放なんかくそくらえじゃ」と思って、好きに泣き喚いて、いつまでもいつまでも引きずることにしたんだよ 笑。
よく、引き寄せのテクニックとかで、気持ちをポジティブに寄せていく、みたいなことをいうのだけれど、そこだけ切り取るのは実は三流でさ。ほんとうは、感じ切って身体から溶かして流していったさきに、湧き上がってくる力というものがある。
でもおとといの出来事は、それすらもばかばかしかった。
そんなテクニックどうでもいいし、わたしはこの感情とともにしばらく生きるよ、と思った。
なんというかな、喪に服す、みたいな気持ちに近いかな。
大切なひとを失ったり、深い悲しみがあったりしたとき、ポジティブに!っていうやつはとんでもないばかか人でなしだろう。そこはいくらでも、どこまででも、落ちて落ちて落ちていいところだ。
なのでわたしは落ちていた。そのシーン、その光景が何度も頭をよぎるたびに、いくらでも涙が出てきた。わたしはその出来事をきっかけに、過去の記憶とつながって、過去の自分を投影して泣いてるのだということくらいは理解しているけれど、それが悲しくない理由にはならなかった。
大号泣したり、noteが書けなくて詩に逃げたり(たまにあるよね)、3日たった今日もまだ思い出してはめそめそ泣いたりしながら考えたことは、
わたしは、自分が思っているよりもずっと、ずうっと、傷ついていたんだな、ということだった。
でも、それを認めたくなかった。
傷なんて、いろんな学びと探究と癒しの旅の末に、もうとっくに乗り越えたことにしておきたかったのだ。「傷はありました。でも克服しましたし、いまはみんなを許しているし、ええ、良い経験でした。うふふ」みたいな顔をしていたかったのだ。
そんなわけあるか~!である。
うん、あの経験があってよかったよ。あの経験があったから、今のわたしになったと思うのよね。という、いい子ちゃんな、スピ界隈にありがちなキレイゴト優等生発言をもう、二度と吐かないと誓います(笑)。
言うとしても、心のそこからそう思えるときでいいし、なんなら死ぬ間際でもいいし、さらになんならもう今世では一生ジメジメしててよしとする。
関係者も、存分に恨むことにする。唯一許すとしたら、「子ども時代のわたしをめためたに傷つけたあいつら、全員一生許さん」と心に決めた場合の、わたしをゆるーす。
まあでも書いていたらいろいろわかった(いつもそう)。
わたしが異常に「人気」とかにこだわるのも、なみちゃんとかに対してずっと「人気ものでいいなあ、周りにひとが集まってきていいなあ」と思うのも、わたしの心の根底にずっと「さみしさ」が消えないまま、残っているからなのだった。
そして、わたしの心にあるその冷たい氷のような「さみしさ」がほんとうに溶けて、消えてなくなるまでは、わたしはその「さみしさ」をとおして世界を見ることしかできず、そして今回のように「さみしさ」を追体験するような出来事が、めぐってくるのだ。
というところ、までは、理解できたところです。あんにょん!
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