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わたしはわたしに、すべての感情を感じることをゆるしている
午前中はとてつもない虚無感と無力感にさいなまれていた。
午前中とざっくりくくったが、朝6時過ぎに起きてからだいたい9時半くらいまで。
なぜこんなに正確におぼえているかというと、その間に朝のルーティンである「モーニングページ」に虚無感のままにつらつらと文章を書きつけて、ああそうなんだな、今わたしはなにに対してもやる気も起きず、楽しいとも思えず、ただただ人生に飽きて疲れ切っているのだな、と眺めたのち、さて、と10時からの別件のお仕事にのぞんだからである。
たぶん体力がないせいかと思うけれども、わりとよく気力が枯渇して虚無感におそわれるほうだと思う。べつにはたからわたしを見て「はつらつとしている!」と感じるひともいないだろうし、通常モード。
けれどもこういう対人支援のお仕事をしているひとは、けっこう「やる気!元気!いえーい!」的なキャラが多いので、テンションが低め安定系のわたし自身のキャラクターについては少々コンプレックスでもある。
でも、それよりなによりも、わたしが避けたいと思うことは、「感じているのに、感じていないフリをすること」だ。
虚無感にさいなまれているのに、元気なふりを自分に強いるのってひどいことだと思う。誤解を恐れずにいえば、それはもう自傷行為だといっていい。
虚無感は虚無感。無力感は無力感。
いつでも人生にルンルンキャハキャハしてなくたっていい。自然でいればいい。
わたしはわたしに、すべての感情を感じることをゆるしているので、モーニングページに盛大に「もう人生のなにもかもがいやだぜ。朝なんてこなきゃいいんだい」みたいに感じたままに書いては、そうかそうか、今日のあなたはそういう気持ちでいるんだね!とそれを自分で目にして受け止めてあげると、なにか心の奥のほうがすごくゆるんでホッとするのがわかる。
わたしはわたしの弱音や泣き言を書きながら、読みながら、それらすべての感情は、やってきては去っていくものだということを知っている。感情はお天気のようなもので、わたしの本質は、そのどんなお天気をもありありと映し出している、大空のような広大なものなのだ。
10時からは人とじっくりとお話する機会があり、その外部刺激というか、べつな出来事がわたしに与える揺らぎによって、わたしの感情の帯域は変わっていく。簡単にいうと、他者との対話は神経伝達のスピードを上げるので、そのスピードによってテンションが上がっていくということが起こる。
夜には今年初の(インフルで先週は行けなかった)ベリーダンスのレッスンがあり、大きな音で好きな音楽が鳴り響く中、リズムに合わせて新しい振り入れをしていくという出来事を経て、わたしの感情の帯域はさらにさらに上昇し、もはや「めちゃめちゃ楽しい!やっぱりもっとうまくなりたいな。レッスンを増やしてみようか」みたいなマインドに変化している。
どの状態も自分だし、どの状態にいることもゆるしてはいるけれども、好きな感情の帯域というものはやっぱりあるなと思う。単純に、虚無感はただつらい。つらくて重くて、とてもじゃないけれどもこの帯域から抜け出せる日がくるなんて思えない、というところがまた、きついのだと思う。
ただ観察して、「これもまた過ぎ去る」と思っているのがいちばんヘルシーだし、まあ実際に過ぎ去るしね、と思っている。
いつもどの瞬間も軽やかに手放していきたいし、新しくやってくる目の前の扉に開かれていたいよね。
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