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目標もタスクもなく、一日一日をだいじに過ごす


都立高校のうたちゃん(高2ミュージカル少女)は先週からだったけど、中学生のかんくんは夏休みが長く、今日から新学期。といってもこれから引き取り訓練なので、引き取りに行く。あっという間に帰ってくるなあ!

けれど、わたしは時間が自由になるお仕事なので、こういうときに行けるのが嬉しい。もうあと30分したら、わたしの大事な大事なかわいいあの男の子を迎えに学校に行くんだ、と思うとただ嬉しい。
わたしはわたしの子どもたちが大好きで、毎日会うたびに嬉しい気持ちになる。こんなに毎日会えるなんてすごくぜいたく!と思う。


台風が去ったので、今朝はベランダにガーデンチェアを出してみた。
といっても単なるアウトドア用の折り畳みチェアなのだけど、クローゼットに仕舞い込まれていたものを出してみたのです。

我が家のベランダはすごく広いというわけではないが、すごく狭いというわけでもなく、洗濯物を干しても小さめのプールやテーブルセットを置けるくらいのスペースはある。これまでにコロナのときから数年間かけて少しずつインテリアを整えていって、手付かずの領域があるとしたらこのベランダなのだった。
そして、この夏は(特に8月は)、目標もなくタスクもなく、ただ一日一日という単位で過ごしているうちに、今になってようやく「ベランダに、ガーデンテーブルセットを置こう。そしてグリーンを増やして、ゆくゆくは人工芝を敷いて、素足で出られる場所にしよう」と思い至った。
すん、と静かに決めた感じ。というか、勝手に「そうするんだな」と決まった感じ。

なのでハチ(旦那)に、「ベランダにガーデンファニチャーを置くね。こんな感じのやつ」と当たりをつけた家具の画像を見せて告げたところ、ニヤニヤしながら「またはじまった」と言われた。わたしが思いつきでなんでも決めていくので、そういうときにハチのいうセリフだった。

「君さあ、そのテーブルセット買っても、使うの? そこで何するの?」
「もちろん、朝は空を見ながらそこでコーヒーを飲むんだよ。読書も!あとは、夏はうちのベランダからいろんな花火大会が見えるでしょう? だから一緒に花火を見ながらビールを飲むの。どう?」
「いやいや、絶対しないってwww」
「いや、する!わたしはする!」

という問答ののち、「じゃあまずは家にある余っている椅子を置いてみなさいよ」と、どうせお前はベランダなんかじゃ過ごさないんだろうと言わんばかりに鼻で笑われながら言われたので、なにおう!という気持ちになって、さっそく今朝になって椅子を出してみたというわけ。

そうして、ベランダにおいたその椅子に座ってみた。
そういえばけっこう低いチェアなので、ぐっと沈み込んでいく。近くにはエアコンの室外機があって、「この室外機にかけるおしゃれなカバーなんかも探さなくちゃね」なんて思いながら、ついでに持ってきたコーヒーを室外機の上に置いた。

このおうちに越してきて15年。
今までに何度もこのベランダに出て、階下の景色を眺め、広がる空を眺めた。でも、そのどの映り方ともちがう景色が、ぐっと深く座ったチェアからは広がっていた。
角度的に、パッと見晴らせる階下の景色は映らなくって、ベランダの柵越しではあるものの、ただただどこまでも広くて青い空だけが目の前にあった。

え、椅子に座るとこんなに、空だけが見えるんだ。ということに驚いて、驚いたままわたしはずっと空を見て、流れる雲を見て、ずいぶんと長くただそうしていた。

8月、目標もなくタスクもなく、ただ一日一日という単位で過ごしていた。
それが素敵だからというよりは、ただ単にそうしかできなかったからだった。頭ではこれまでどおりの目標を立てようと思うし、これまでうまくいったやり方をまたたんたんと踏襲しようと思うし、そのために行動につながるルーティンをすればいいと思うものの、とにかく違和感の大きさと気力の湧かなさがハンパなく、「だめだこりゃ」とあきらめた。

やらないと物事は動かないよ。
動かないとご縁もお金も入ってこないよ。
つまりこのままだと死んじゃうよ。
やるためには、やると決めればいいんだよ。

としきりにうるさいエゴの声には、「なんも決めらんねえし、じゃあ死ぬからいいよ」と答えた。たぶん正確には死なないだろう。静かに野たれ死ぬにはわたしは愛に囲まれすぎている。どんなわたしでも助けてくれるであろう家族や両親が、わたしが野たれ死ぬのをゆるさないだろう。

つまりは「社会的に、死ぬよ」という声なのだ。
無価値で、無意味で、役立たずで、ごくつぶしの、無用な存在になって、誰からも見向きもされなくなることが、エゴの死、ということだ。
肉体はもっともっと、ひたすらにリアルでシンプルなものだと思う。
いつだって騒ぐのはエゴだけ。

というわけで、そうと決めたわけではないけれどもこの夏にわたしはいったん死ぬことにしたのだと思う。だってなにも浮かばない。なににも向かう気力が湧かない。心はずっと動かない。だとしたら、もう、「だめだこりゃ」の自分のまま生きるしかないじゃんか。

そもそもわたしはいつからそんな大層な自分になったんだい?
もともと「だめだこりゃ」な人だったんじゃないのかい?
それって人間らしいし、かわいいのに、それじゃダメって、いつから決めたんだい?
こういう自分ならOKで、こうじゃない自分はNGなんて、そんな区別ってあったっけ?

目標もタスクもなく、ただ一日一日、その日だけを生きていた頃を、思い出してみたくない?

8月のわたしは、そんな呼び声に従っていたのだと思います。

そして目標もタスクもなくただ一日一日を生きていただけで、なんかよくわかんないけど不思議に癒されてリセットされた今日のわたしが、ガーデンチェアに腰掛けて、コーヒーを飲みながら空を見上げていた。
さすがに暑くて「なにやってんだ」とか言いながら部屋に戻って、特に目標でもタスクでもない今日のnoteを書いてみることにしたら、こんな文章が生まれた。

書き始める前にはどこにもなかった言葉たちが、あるポイントからあるポイントへと移行したら、もうその言葉が「ある」世界になっている不思議さよ。

今日も、長い(であろう)人生の中での、
今だけ、今日だけ!の一日を。



にゃんこトンネルの窓からぴょこん、のニカちゃん




ヨガティーチャーで、WLPファシリテーターの吉岡ななこさんが、記事を引用してくれました。深謝!



ライティング・ライフ・プロジェクト 第15期 <6月スタート>
満席となりました。ありがとうございました!


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