0915.女性の創造性は滋養となって世界に溶けてゆく
つくばから帰宅して、今はおうち。
子どもたちに会って「わあ、この子たちスキ!」って思って、家を眺めて「わあ、ここスキ!」って思った。あとは帰ってくる旦那を見て「わあ、…….」って思うだけだ(いやそこはスキでいいだろう……)。
なんだかんだで毎月どこかへ「ことりっぷ」していて楽しい。行くのも、帰ってくるのも。朝起きるのも楽しくて、夜眠るのも楽しかったら、生きて、生きて生きて、そしていつかその日がきたら死ぬのも楽しいだろうか。
養老さんと隈研吾の対談本『日本人はどう死ぬべきか』を読んでいたら、養老さんのお父様が、5歳の養老さんのそばで亡くなるときに「にこっと笑い、喀血して、その直後に」亡くなった、と書かれていた。
そして、「父が笑って死んだということは大きかったですね」とも話していた。
にこっと笑って、そのときを迎えられるって、すごいことだな。
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今日も朝からあやちゃんにホテルにびゅいんとお迎えにきてもらって、つくばからトンネルを越えての更なるカントリーサイドへとドライブをした。
すてきなブックカフェ(お休みだったけど)のお庭で、広がる山々や田んぼを眺めながら話していたら、そのブックカフェ、わたしがちょうど思春期のときに夢中になった少女小説の大人気作家さんが運営されているカフェだというので、おののいた。
えー、わたし、むちゃくちゃ夢中になって読んでたけど!?
っていうかわたしその頃、自分が少女小説の作家になるって信じて疑わなかったなあ!とか、いろいろ思い出した。
夏には紫式部ゆかりの石山寺に行ったし、今回はその作家さんゆかりの地へ行ったし、よしよし。文筆の神よ、我に力をお授けください…..と思いながらその場をあとにした。
そして、また別の夢のようなカフェへと誘ってくれるあやちゃん。
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お昼にはふたたびあやちゃんのおうちへ。
彼女は「リビング・アトリエ」というコンセプトで活動している。ふだん生活をしているリビングを、グラデーションの地続きのまま、アートを生み出す空間へ。
とにかく、生活の中で、リビングという場所で、子育て真っ最中といういまここで、あやちゃんが描きつづけていることをとても尊いと思っているので、つくばにきたら「あやちゃんと絵が描きたい」と思っていたのだった。
絵の具と画材をちゃくちゃくと用意してくれるあやちゃんを横目に、にわかに緊張していく自分を感じる。え、やだなあ。わたし絵なんて描けないんだけど。あやちゃんが描いてるところ見てるのじゃダメ?
って、何度が食い下がってみたけど、「えへへ。みおさんも描こう? だいじょうぶ、カタチじゃなくって、ただ筆で色を置いていくだけですから」というので、警戒しながらも始めてみたら、夢中になった。
「秋分だから、秋分をテーマにしましょっか。まず、真ん中はね、赤でぐるぐるって、自分の内側に燃えているものをここに。大きさも、自分でしっくりくる大きさにして、そうそう、そんな感じ。次は、黄色にしよう。黄色はね、太陽に向かって吹いてくる風みたいに、すぅーっと……」
って、まるで誘導瞑想のようなあやちゃんの声と、楽しそうに自在に動く彼女の絵筆を見ながら、なんとか一枚の絵が仕上がって、とても幸せだった。
乾かしてくれて、「持って帰ってね」と、持たせてくれた。
絵が描けて、ピアノが上手で、作曲もして、美味しい栗ご飯を炊いてくれて、お手製の梅酒を飲ませてくれたあやちゃん。イラストの仕事をして、娘ちゃんとお絵描きをして、フランスでの生活をつづるエッセイも書き、最先端の研究をする大学の先生である旦那さんとアカデミックな対話(たまにバトルもw)を楽しんで、理学療法士もやってたからカラダのプロで、自分の内なる宇宙を探索してさらりと極めていく彼女の、天才性と創造性について考えて、あ。って気づいた。
女性のクリエイティビティーや、唯一無二のオリジナリティーって、「自我とともに社会に能動的に打ち出す」というやり方を選ばない限り、「滋養」として、目に見えない細かい粒子みたいになった「滋養」として、生活の中に溶け込んでいくんだ、って。
あやちゃんの天才性と創造性は、あやちゃんを「カリスマ」とか「タレント」とかにしないかもしれない(本人が選ばない限り)。けれど、確実に、娘ちゃんと旦那さんの細胞のすみずみまで浸透して、まったく別のいのちの形態で、社会的に開花していくのだ。
もちろん、それに対して物申したい気持ちというのは、ある。
アダム・スミスの夕食を作り続けたママの名前は後世に残らない。岡本太郎の作品の半分は岡本敏子の存在の力からできているとしても、名声は岡本太郎のものだ。だいたいそんな感じだ。
だって、しょうがないじゃないか。滋養なんだもの。細胞にとけてしまうのだ。
そりゃあカラダにおける獅子座的ヒーローは、脳とか心臓だよ。それらを構成する細胞はただ細胞で、名前はない。
でもそれって悲しいことなのか? それって貶められて虐げられて不平等なことなのか?
と考えたとき、ちょっとわかんないな、というのがわたしの正直なところではある。
あやちゃんと過ごした時間は、わたしの細胞を変えたと思う。とにかく滋養に満ち満ちた二日間で、癒されて、活力を得て、なんだか月にだって飛んでいけそうな気持ちだもん。彼女が、旦那さんにでろでろに溺愛されているのがよくわかる。
だってこんなパワフルな源のような存在を、手放すなんてできっこないよ。男性だったらなおさらそう思うと思う。
女性の力って、名前が残らなくたって、本やモニュメントにならなくたって、権威も名誉もなくたって、世界のそこここにただ溶けて存在している、そういうものなのだ。
水の中にいるお魚たちが、一生「水」の存在を知らないように。
彼らが「水の中」で生かされていることに、お魚自身はぜったいに気づけない。そんなふうに世界に満ちているんだな、と思った。
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