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読書記録『ある男』平野啓一郎×『黄色い家』川上未映子 

注)両書のネタバレに触れていますので未読の方はご注意ください。

最近読み終わった2冊についての感想です。

どちらもキーとなる登場人物の年齢がアラフォーということで何となく他人ごとではない気持ちで読んだ。

家を捨てたい男 vs 家を守りたい女

『ある男』の中の登場人物は自分の過去を捨て、名前を捨て、家や故郷を捨てて、別人として生きることを選んだ。そのあとで『黄色い家』を読んだのだけど、泥沼のような生活の中でも自分であることをやめられず、「家の崩壊」の後も過去に囚われ続けた女の人生がとても対照的。

名前と戸籍で「その人」が少なくとも社会的には「決まって」しまう。つまり他者によって形作られている自分。

じゃあ過去は現在に必要なのか?

誰かの過去と人生をそのまま拝借して生きていくこと、逆に自分の名前をなのってどこかの誰かがその人の人生を歩んでいくことになる可能性...『ある男』の読後は「じゃあ自分って何?誰?」という深い深い闇に落っこちていきそうな気分になった。
私のことをまったく知らない土地に一人旅をしてすいすい町を歩くんだけど、ふと鏡を見て「自分のままじゃん」って我に返る感じを思い出す。

一方で(たぶん意図的であろうと思うのですが)『黄色い家』では冒頭の「現在」のパートを除き、登場人物たちの「苗字含めたフルネーム」は出て来ない。誰かの人生を描写するのに苗字やイエなんていらないんだ。周辺人物たちは基本的にはあだ名や通称だったので、個としてのキャラクターとしての粒度(っていうかな)がひとしく感じられたし、過去パートのノスタルジーは同年代アラフォーには痛々しも鮮やかであった。主人公の成長につれて「オンナ」が出てきたらちょっと嫌だなと思っていたけど杞憂に終わった。

どうしても「そっち側」の生き方ができない人たち。苦しい中でも「黄色い家」を続けたいと奮闘する(これも名言されていないけど?クイアな)主人公の執着ともいえる生き方。母性やシスターフッドという言葉では包み切れない奇妙な共同生活とシノギ、その崩壊。

家をすて他者の呼ぶ名前で自分の人生を再定義する男と、名もなき女性たちの共同体としての「家」にしがみつく話。どちらもとてもよかった。『黄色い家』も映像化が決まっているらしいので、どんなキャストになるのか楽しみ。特に黄美子とヴィヴを誰がどう演じるのか気になる。下手すると内容的には「万引き家族」の二番煎じような扱いをうけそうな予感がしてしまうのだけど、違うんだよね、なんか違うと思う。父とか母とか娘とかいった家族の役割は無い「家」の話であって、家族の話ではないんだ。

比べるような感想を書いてしまったけれど、『ある男』を完全に呑み込めないまま『黄色い家』を読んだから考えすぎなだけかも。

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