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エンパシーと公平と同質

エンパシーとは、自分とは異なる価値観や考え方を持つ他人に自己を投影し、相手が何を考えているのか、どう感じているのか想像する力のことである。

公平とはすべてのものを同じように扱うこと、判断や処理などが偏っていないこと、とある。
つまりは全く違うものたちが違うからという理由で不公平に扱われてはいけないということ。
公平は基として違うものたちの世界に成り立っているのだ。

公平と同じであることは違う。
特に日本では公平であること、同じ同質であることが混合されやすいと感じる。
だからこそ眉をしかめてしまうような、可笑しな校則があるのだ。
例えばポニーテール禁止、ショートヘアの場合は前髪をつくらねばならない、下着の色の指定(気持ち悪い)、肌着の着用禁止(気持ち悪い)など。
よくある、染髪禁止や髪形の指定(前髪は眉上、耳下で結ぶ、ツーブロック禁止など)、男女交際禁止も当時は怒られるからアウト気味で守っていただけで、何故ダメなのか理解していなかったが、改めて考えてみても理解しがたい。

危険から生徒を守るため、清潔感などと表向きは言っているが、納得する理由を説明できる教師や校長はいるのだろうか。
この令和の時代に髪を染めたから非行に走ると信じているのだろうか。(自分で染めたら髪が痛むし、美容院に行けばすぐに根元が気になってお金がかかるよと言われた方が何倍も納得するし、自分で体験してはじめて実感する。)
いい大人が集まって決めた案が肌着の着用禁止とは、もはやそのものにエンパシーの無さを感じる。

なんだか感情が昂ってしまったけれど、つまりは学生時代に「皆んな同じである」ことを強要されている環境に押し込まれていたのに社会人になってみると同質と個性のハイブリッドを要求される。空気は薄く、息すらしずらかったのに、だ。
育ちきらないまま、次は多様性という大きな波に飲み込まれている。

多様性とはなにか。
叫ばれる今、必要なのはエンパシーと公平さだと思う。

違うものを「空気の読めないやつ」「場を乱すやつ」「異質」こう蔑んではいないだろうか。
男の子は、女の子は、パートナーだったら、親だったら、子どもだったら、いつまで代名詞に踊らされてるんだろう。誰にとっての当たり前なんだろう。

自身を顧みては苦しくなる。

知らず知らずのうちに身体に刷り込まれた概念に気付いていきたい。そのための投稿。

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