井上円了の妖怪観
明治の仏教哲学者・井上円了は、多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、現在の東洋大学の前身である哲学館を設立した。
一方で、「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれ、柳田國男よりも早く妖怪を研究し「妖怪学」「妖怪学講義」などを著した。
一般的に、井上円了は妖怪や怪異現象などの迷信について科学的見地から批判を行い、これらの迷信は克服すべきものだとして認識していたことで知られている。
ただ、実際には円了自身は妖怪を撲滅することを主張していた訳ではない。そもそも、円了は著作「妖怪玄談」の中で、妖怪について「世の古今を問わず、宇宙物心の諸象中、普通の道理をもって解釈すべからざるものあり。これを妖怪といい、あるいは不思議と称す。」と定義している。
つまり、日常的な論理では解釈できないものを「妖怪」と呼んだのだ。これはかなり広い対象を含んでおり、まじないや占いなどの民間信仰から流星や蜃気楼などの自然現象もその対象に挙げている。そして、これら妖怪の事例に対して逐一合理的な解釈を与えている。
では、一体円了は妖怪を取り上げてそれに合理的な解釈を行うことで何を主張したかったのか?
それは、合理的な解釈では説明ができない「真怪」の探求であった。
円了は妖怪を大きく「虚怪」と「実怪」の2つに分けた。さらに「虚怪」は「偽怪」と「誤怪」に、「実怪」は「仮怪」と「真怪」に分かれる。また、「仮怪」は「物怪」と「心怪」に分かれる。(下図参照)
「偽怪」は人の意志、工夫によって構造、作為する妖怪で、これに個人的と社会的の 2 種類がある。
「誤怪」は、偶然に起った出来事が、誤って妖怪と認められたものである。これに外界と内界の 2 種類があり、客観的妖怪と主観的妖怪という。この偽怪と誤怪は「虚怪」であり、真の妖怪とはいえない。人の虚構と誤謬から生まれるものである。
この「虚怪」に対するものが「実怪」である。その第 1 は「仮怪」である。「仮怪」は自然に起れるものであり、これに物の上に現象するものと、心の上に現象するものの区別がある。そのため、1 つを「物怪」つまり物理的妖怪とし、他方を「心怪」つまり「心理的妖怪」とする。さらに「実怪」には「仮怪」の他に「真怪」がある。「真怪」とは、真正の妖怪で、いわゆる絶対無限の体を名付けていうものである。
「実怪」の中で、「仮怪」はこれを講究してその原理に達すれば、普通一般の規則と同一の道理に基づくものと言うことができる。今日の人知では妖怪とみられるものも、将来の人知によってその理の解明が期待されるものである。
これに対して「真怪」は「いかに人知進歩すとも到底知るべからざるものにして、これ超理的妖怪なり。」であり、人知がいかに進歩したとしても知ることができない「妖怪」であるという。
そして、「妖怪学」において、偽怪を払い去りこの真怪を現すことが目的であると円了は述べている。
ここまで井上円了の妖怪に対する考え方について見てきたが、個人的には「真怪」に当てはまるような「モノ」がぜひあってほしいと勝手に思っていたりする。
すべての事象に合理的な説明がついてしまう世界というのは何とも味気ないものだ。
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