民俗学ラボ

民俗学に関する見識を深めたいし、広めたい。そんな思いでちょこちょこ投稿していきます。

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最近の記事

井上円了の妖怪観

明治の仏教哲学者・井上円了は、多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、現在の東洋大学の前身である哲学館を設立した。 一方で、「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれ、柳田國男よりも早く妖怪を研究し「妖怪学」「妖怪学講義」などを著した。 一般的に、井上円了は妖怪や怪異現象などの迷信について科学的見地から批判を行い、これらの迷信は克服すべきものだとして認識していたことで知られている。 ただ、実際には円了自身は妖怪を撲滅することを主張していた訳ではない。そもそも、円了は著

    • 民俗学と民族学って何が違うの?

      「みんぞく」という単語を聞くと、「民族」の漢字をあてはめる人が多いのではないだろうか。 では民族とは何なのか。 それは、特定の文化・習慣を共有し同族意識を共有する集団であると言える。 そして、民族学は様々な学派はあるものの、世界の諸民族の文化や社会を研究する学問である。この学問は、西欧を中心にした偏見を持つ西洋哲学(哲学者サルトルの実存主義)に対するアンチテーゼ(文化人類学者レヴィ=ストロースの構造主義)として現れたものである。 一方民俗とは、風俗や習慣、伝説、民話、

      • 胴上げにはどんな意味があるの?

        プロ野球で優勝したチーム。選手が監督を胴上げして喜ぶ光景。 私たちは特に違和感なく見る光景だが、他の国ではあまりこういった光景を目にしないようだ。 「胴上げ」という行為は日本独自の文化なのだろうか。 宮田登著「民俗学の招待」によると、かつて農村部でドウブルイとかドウブレという儀礼があったようだ。どういう儀礼かというと、村人の長期に渡る伊勢参りの帰着祝いとして、大宴会を催して長い間の苦労を忘れる祝事であるそうだ。 一方、江戸の浮世絵に年末に行われる煤(すす)払い(現在でいう大

        • 「まれびと」ってなに?

          日本の民俗学者に折口信夫(おりくち しのぶ)という人物がいる。 折口信夫は独特な概念を説明するのに独自の学術用語を生み出した。 「まれびと」もそのうちの一つである。 「折口信夫全集第一巻」によれば、「まれびと」の元々の意味は「稀に来る人」であり珍客の意を含んでいた。さらに「まれ」には「唯一」「尊貴」の意味があり、「ひと」には人間の意味として定まる前は「神」「継承者」の意味があったと述べる。 そこから、「まれびと」とは来訪神のことであり「海のあなたから時あって来たり臨んで、

        井上円了の妖怪観

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        • 民俗学あれこれ
          10本

        記事

          雷の民俗学的な意味ってなに?

          「地震・雷・火事・親父」 恐ろしいものを列挙しているこの言葉、意味は父親は災害の脅威に匹敵するということだが、昔から雷は地震に次ぐ畏怖の対象であったようだ。 昔から雷が人々に恐れられること自体は想像に難くない。 凄まじい音と光に誰でも一度は度肝を抜かれたことがあるだろう。 また、落雷は時に火災を起こし、人命も奪ってしまう災厄である。しかもそれは何も昔の出来事でなく、現代でも落雷事故のニュースが時折報道される。 時代や地域に限られることなく災いをもたらせる身近な存在、それ

          雷の民俗学的な意味ってなに?

          節分に豆をまくのはなぜ?

          「鬼は外!福は内!」 自分が子どもの頃には節分の日になると毎年豆まきをしたものだ。 もともと節分は追儺式といって鬼や災いを払って新年を迎える大晦日の行事であった。そして、健康であることを「まめ」ということから、語呂合わせとして大豆の「豆」をまくことで災厄を振り払い、健康を維持し平和な生活を送れるようにとの願いを込めたようだ。 また、追い出される対象になっている鬼とは一体何かという議論については様々な説があるが、「隠(おん)」つまり隠れているものを意味すると言われている。

          節分に豆をまくのはなぜ?

          正月に餅を食べるのはなぜ?

          正月に食べる料理として何があるかと聞かれれば、大半の人はいくつか列挙する料理の中に「お雑煮」「餅」などを挙げるのではないだろうか。 では、いつから正月に餅を食べるようになったのだろうか。 結論から言うと、平安時代には餅を食べる習慣があったようだ。 ではなぜ餅なのか。それは餅が福の源であり福神であると考えられていたからであるようだ。 そのため、全国各地で正月に餅を神仏に供える行為が重要視されてきたのである。 ここまで見ると、餅は正月に不可欠な食べ物であり誰もが雑煮であれ焼餅

          正月に餅を食べるのはなぜ?

          霊柩車を見たら親指を隠すのはなぜ?

          先日街中を歩いているとき、走行中の霊柩車が目に入ってきた。 「あっ!」と気が付いた時には親指を手のひらに包み込むようにして隠していた。我ながら迷信深いなと思いながらも同じことをやっている人がいないか周りを見てみたが、どうやら自分だけのようだった。 霊柩車を見たらどうして親指を隠す必要があるのか? 自分が子どもの頃、このことを両親に聞いたら「親の死に目に会えなくなるからだよ」と言われた。 今思い返すと自分の子どもになかなかスゴイこと言うなと思うが、当時は意味がよくわからなかっ

          霊柩車を見たら親指を隠すのはなぜ?

          幽霊と妖怪は何が違うの?(2)

          前回「幽霊と妖怪は何が違うの?(1)」で、幽霊と妖怪の違いを判断する考え方として柳田國男の説を見てきたが、その説に当てはまらないケースもあることがわかった。それでは他にはどのような考え方があるのか見ていく。 近世文学・芸能史学者の諏訪春雄は、幽霊について「人間であったものが人間のかたちをとって出現したものである。これに対し、妖怪は人間以外のかたちをとって出現する。前身が人間であるか、人間でないか、現状が人間のかたちをしているか、人間の形をしていないか(人間のかたちの崩れたも

          幽霊と妖怪は何が違うの?(2)

          幽霊と妖怪は何が違うの?(1)

          妖怪と言われてどういうものが思い浮かぶだろうか。鬼、天狗、河童、海坊主といった類か、あるいは漫画やアニメにもなっているゲゲゲの鬼太郎や妖怪ウォッチなども当てはまるだろうか。 一方、幽霊はどうだろう。死装束を着て恨めしそうな顔をして現れるようなものを想像するだろうか。 では、一体この両者にはどういった違いがあるのだろうか? これについて、柳田國男は『妖怪談義』という著作のなかで、お化け(妖怪)と幽霊の違いについて次の点を挙げている。 ①お化けは出現する場所が決まっていて

          幽霊と妖怪は何が違うの?(1)

          ケガレってなに?

          「ケガレ」という単語は、穢れという一般的な語をもとに1970年代以降に民俗学や文化人類学が設定した分析概念であるとされる。 漢字が意味するとおり不浄を意味し、民俗学におけるケガレの種類としては「黒不浄」と「赤不浄」が代表的である。「黒不浄」は死の穢れを意味し、「赤不浄」は出産の穢れを意味する。 ここまで見てきて死を穢れと考えるのは現代の感覚でも理解できるが、出産を穢れと見なすことには違和感があるのではないだろうか。今では妊娠すればお祝いごとと思うのが普通だからである。 し

          ケガレってなに?

          ハレとケってなに?

          「晴れの日」という言葉がある。記念すべき特別な日といったニュアンスで使われるだろうか。また、晴れの日に着る服は晴れ着と言われ、普段とは違う特別な意味合いを持つ服である。現在だと、成人式で着られる振袖や結婚式のウェディングドレスがそれにあたるだろうか。 そう考えると、「ハレ」という単語は今でも馴染みのある単語だからその意味もなんとなく想像が付きそうだ。一方、「ケ」はどういう意味なのかイメージしにくい。 民俗学でいう「ハレ」と「ケ」は柳田國男によって設定された概念だ。 「ハレ」

          ハレとケってなに?

          どうして葬式には「黒装束」で参列するのか?

          これから葬式が行われるというとき、参列者の中に黒色以外の服、例えば白い服を着ている人がいたら「なんて非常識な人なんだろう」と周りから思われるか或いは直接注意されることだろう。 では一体いつから葬式には黒い色の服で参列するようになったのか。 実は、これ比較的最近のことで、明治時代に政府が欧化政策のひとつとして西洋の葬祭儀礼を広めたことがきっかけになっている。 具体的には、明治30年の皇室葬儀のとき、列強の国賓の目を気にして黒色での統一が決定したらしい。 その後、皇室の喪服が

          どうして葬式には「黒装束」で参列するのか?

          お賽銭を投げ入れるのは失礼じゃないの?

          今年も残り2か月を切り、日に日に寒さが身に染みてくる今日この頃、近所にある神社では早くも「初詣」と書かれたのぼりが出ていた。 毎年、初詣には多くの人が押し寄せて賽銭箱に小銭を投げ入れる光景を目にする。でも、よく考えてみると奇妙な光景だ。人に物をあげるときでも投げて渡すのは失礼なのに、まして神様にこんなことをするなんてバチが当たらないのだろうか。 このことについては、貨幣というものが習俗の中でどのような役割を担っているのか考える必要がありそうだ。 地方によっては、厄年の人

          お賽銭を投げ入れるのは失礼じゃないの?

          どうして雛人形は3月3日を過ぎたら飾っていてはいけないの?

          近年はイベントの一環として、3月頃に見事な段飾りの雛人形を飾るところを見かけるようになった気がする。 一般的に女の子の節句とされ、雛人形一式が母親の生家などから贈られて飾られる。2月28日には飾り付けを終えるところが多く、あられ・ひしもち・ハマグリなどを供えておく。 そして、3月3日を過ぎたら片付けることになるのだが、昔から「3月3日を過ぎたら早く片付けないと嫁に行き遅れる」と言われている。 今のご時世だと色々と批判が飛び出しそうな内容だが、そもそもなぜ雛人形を片付けない

          どうして雛人形は3月3日を過ぎたら飾っていてはいけないの?

          箸と箸で食べ物を持つのはどうしてダメなの?

          「こら!箸と箸で食べ物を持ってはいけません!」 食事中、母親が大皿から自分の箸で食べ物を取ってくれたので、自分も箸で受け取ろうとしたとき言われたセリフだ。 「どうして?」と聞くと「箸と箸で持つのはお葬式で火葬した人の骨を拾うときにやることだから、普段やるのは良くないんだよ」と言われた。 いまいちピンとこないまま「わかった」ととりあえず言ったのを覚えている。 時が経ち、人の不幸に関わることを連想させる言葉や仕草を避けることが、社会で生きていく常識の1つなんだと気づいてからは

          箸と箸で食べ物を持つのはどうしてダメなの?