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『コロナの時代の虎』

 一見すると廃墟のようにも見える古びた二階建ての小さな店舗だが、日が落ちる頃そこを通ると大抵は明かりが灯っている。だから一応は廃墟でないらしい。恐らく元は濃紺色だったと思われるが長年の雨風や他の何かに染められたり色あせたりで屋号の文字も擦れて読み辛い、とにかくボロ布じみた暖簾。しかし思い切ってそれを潜ってみれば意外にも店の中はいつも賑わっている。いまにも崩れ落ちそうな小さく狭い店だが、それでも結構繁盛している様子だった。

「いや、ほんまによう飲む。わしも若い頃よう飲んだけどな、それでもこの娘には勝たれへんわ」と関西仕立ての出し汁、もしくは泥みたいに濃いソースなんかで繰り返し長時間煮染めたような、まだらに老いが浮いた顔で店主が言った。すぐに満席になってしまう小さなコの字型カウンター、その一番端に座っている若い女は、確かに相当なペースで飲んでいる様子が伺えた。「はいよ、こっち半分チーズ入りねー」と女将が持ってきた本場大阪仕込みで中身がトロッとしたタコ焼きの皿を前に、手元の杯の残りをグイッと一息に乾して「……赤と黒、お代わりください」同じ飲み物をまた注文した。

 赤と黒のブルースというのが、この店の名物というか店主の思いつきで始めたオリジナル混合酒のメニューであり、そのネーミングの通り赤黒い色をしていた。店主こだわりらしい底が丸くなっているグラスに、その怪しげな液体がなみなみ注がれて出てくる。実際に何と何の酒をブレンドしているのか不明なのだが、飲めばとにかく酔った。大の男でも三杯で足元グラグラやで、なんて店主はよく言っているのだが、カウンターの端の女客はさっきから何杯もそれを飲んでいた。大玉タコ焼き六個の一皿を食い終わるまでの間に、さらに二杯飲んだ。

 そして便所に立ったその女客が四つん這いで床を貼って戻ってきたものだから、流石のわれわれも少し驚いた。

 狭い店の床を四足の動物のように器用に這い回りながら、その女は思った。店の床が汚いと。日替わりの一品メニューの仕込みに思いのほか手間取ってしまい、開店前の床掃除を今日くらいまあええかな、とつい怠った店の女将が床を這って進む女の客に「あら、やっぱり飲み過ぎちゃう? 大丈夫かね?」と声をかける。その問いかけにも応じず、ただ床の古いタイルに染みついた赤茶けた何かの汚れをじっと見ていた女客だが、不意に入り口のドアがガラリと開いた音を聞いて急に顔を上げ、そこから入ってきた新しい客の足の間に、店の外の路地を横切るネコ科の動物らしい姿を一瞬のうちに目で捉えた。そして、いきなりそこ目がけて駆け出した。自らも俊敏な動物に成り変わったような四つ足、突風の如き勢いで客の足の間をくぐり抜け、あっという間に店の外に飛び出していった。

 おれたちはすっかり驚かされて、思わず顔を見合わせた。そこで「またもオオトラやったか……」と老店主がポツリと独りごち、女将もとくに動揺した様子もなく、突然去った女客の席をサッと簡単に片付ける。これは無銭飲食なのか、それともツケ払いなのだろうか。そこが少し気にはなったが、どちらにしろこの店ではそう珍しい事ではないのだった。


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 ウラジーミルが、戒厳令下の街に虎を放った。それは全世界的な感染症の流行に対する施策の一つであったらしい。強硬的なイメージで売ってきた彼らしい政策だと当時評判になったものだが、そのとき放たれた虎は外出制限を無視する北の都市の不遜な市民を粗方喰らい尽くし、どういうわけか海を越えてこの国に渡ってきたらしい。そして最近では何故かこの界隈を彷徨いて、毎夜獲物を探している。そんな情報が、この店の常連の間でまことしやかに出回っていた。

 どうにも阿呆らしい話やなあと呆れながらも、老店主は以前に衛星放送のドキュメンタリー番組で見た光景をふと思い出した。たしか沖縄か南西諸島で、野生の猪が海を泳いで渡っていた場面。……なるほど、猪があんなんするんやったら、そら虎だって泳いできても不思議ないなと考えを改める。とにかくいま外は危険や、でもそんな中よう平気で飲みに来るもんやとウラジーミルが放った虎の恐ろしさを話のタネに盛り上がっている常連たちの姿をチラリと眺め、逆に少し感心したりもする。

 カウンターに並んで座る常連の一人が、急に激しく咳き込んだ。側で飲んでいる別の常連があからさまに顔をしかめて迷惑そうにすると「いや、これはあれじゃないから。職場の検査も、ずっと陰性だから」まだ少し咽せながらもその男が弁明する。あれではない……するとこの客の咳は何だろう、そしたらスペイン風邪やろうか、あれもこんなふうに咳が出たな。なんや、どっちにしろ大変やん、と女将は思った。カウンター脇のサーバーから生ビールを注ぎながら、ちょうど旦那である店主も同じような事を考えていた。どっちゃにしろ、えらい難儀なこっちゃ。

「これ、じつは結核なんだよね……」と眉根をわざとらしく狭めたような深刻ぶった表情で、その男は告白する。またこいつ、いい加減にしくされやとおれたちは呆れる。何でも昔は時代遅れの本格派文学青年だったとかで、冗談だか妙な気取りなのか普通の感覚ではどうも理解しづらいポーズを見せてくる事が、こいつにはよくあった。とくに酔ってくるとしつこい。

 そういうわけで、私は結核患者ではない。しかしながら学生の頃より作品を通して親しんだ、あの時代の文学者たちの患う病といえば、まず何といっても結核。そこに異論はなかろう。若い時分から現在まで変わらずに傾きかけのボロ下宿に住み、日の当たらない北向きの六畳間で夜半から明け方に激しく咳き込んでいる私という主体にとって、その病苦はまさに自分のものであるかのようだ。だから方々でわざとらしく咳き込んでは「これは結核かも……」「じつは結核を患って」等と深刻顔で触れ回ったりもするのだ。畢竟、これも報われぬ諧謔精神の発露なのだ。そうやって私は自らを憐れむ。

 こら逆にほんまに結核ちゃうかと、まだしつこく咳き込んでみせる男を見て老店主は思った。もうかなり以前の話にはなるが、彼の回りにも実際に結核になって苦しむ人間が大勢いた。あれは、えらいしんどいもんやで。

 そして店主が思った通り、この文学崩れらしい男は実際に結核菌に感染していた。しかし本人はまだそれに気がついていない。彼の職場である清掃会社の地下にある清掃員の待機場所は換気機能が不十分で、そこに会社の専務の親類であるらしいギャンブル狂でアル中気味の五十絡みの男が何処からか結核菌を持ち込んだ。その男と彼はとくに仲が良いわけではなく、むしろ軽蔑に近い感情を互いに抱き合っているのだが、その職場において菌を共有したのは現在この二人だけだった。「得てして人生とはそんな皮肉に溢れとるもんやで」と店主が話を何となくまとめる事が数年に一回くらいの割合であり、今回もそうした例の一つとなる。

 その内すっかり酔いも進んできた様子の文学崩れの男は、空いた皿を下げにきた女将に景気づけにレコードでもかけてくれないかと意味の分からないややこしい注文をして、度数がやたら強く異様に赤黒い店の名物ドリンクをチビリチビリと舐めるようにして飲む。こうなると、いよいよこいつはしつこい。「そうだな、ラ・トラヴィアータとかないかな。1967年のカバリエの盤がいいけど、まあ何でもいいや」「……え、なんて? らとばりあ? それ外国の名前かね?」「いや、オペラだよ。有名でしょ? ……う、えっへん、げほっげっげっ……ほら、椿姫。ほんとに知らない?」「え、唾? 汚いわあ。あんた何言うとるのよ」といった不毛な会話が、ひとしきりそこで繰り広げられた。そんなもの、この店にあるわけがない。

 ……でもなあ、昔はレコードやらテープやら沢山持ってたんよ。おとうさんもわたしも音楽、それに歌うのも好きやって、店にもいっときカラオケ置いてたしな。あ、この人またこんなに咳き込んでから。もし本当に結核なんやったら、そのうち血ぃ吐きよるわな。イヤやなあ。なんにせよマスクくらいしたらええのに。本人も難儀やろうけども。でもやっぱりこれ、スペイン風邪やないかね。わたし何となくそう思うわ。考えてみればスペイン風邪の頃、わたしらまだ関西いたんやった。やっぱり皆が難儀しとったけど、いまになったら、えらい懐かしいわ。不思議なもんやなあ。

 その時代に店主夫婦が営んでいたのは、現在でいう炉端焼きのような店で、近くの漁場から店主が直接仕入れてくる新鮮な魚がウリで一時期は大変に繁盛した。……そうやで、そらもうエラい儲かってジャガー乗り回してたんやから、わし。近所でも有名やった。ジャガーなんて名前からしてごっつい速そうな車やろ。実際えらいスピードも出たし、とにかく目立ったで。そうやって老店主は思い出しながら語るのだが、スペイン風邪の頃には自家用車なんて世間には全く普及しておらず、もちろんジャガーという車もまだこの世に存在しなかったはずだった。だから恐らくそれはもっと先の時代の思い出であるのだろう。

 かつて全世界的に猛威を振るったスペイン風邪では、この夫婦の周りの人間も多く死んだ。しかし彼ら夫婦はどうやら死ぬこともなく、百数十年余りの出来事を混濁した記憶の中に詰め込み、それを気まぐれにかき混ぜながら様々な商いを転々、そしていまから数十年前に住み慣れた関西を離れ、やがてこの街に流れ着いた。それから何となくの思いつきで国鉄の駅前にタコ焼きの屋台を出して十数年、それなりに紆余曲折を重ね、この店を開いたのだった。「その頃は、わしもまだ若くてな……」と店主はよく話すのだが実際の所、彼ら夫婦はこの土地にやって来たときから既に年老いており、この店もどうしたわけか最初から崩れかかった廃墟のような佇まいであった。

 ところで、先ほど自分の足の間をくぐるように四つ足で駆け抜けて出ていった娘は本当に人間なのかと、そのとき新しく入ってきた一見の男客が店主に尋ねた。自分の股の下を通ったその娘の首筋にはビッシリと獣の様に毛が生えていて、とても普通の人間のようには見えなかったのだという。

「ええ、なんやて?」店の隅で常時流しっぱなしになっているテレビ、時代劇専門チャンネルの鬼平犯科帳に見入っていた老店主が聞き返したが「……ああ、この話な。あの女中の子がじつは盗賊と通じとってな。でも可哀想やねん。わし、この話もう何十回と観てるから、よう知ってる」と自分で勝手に納得して見当違いな返事をする。この店主は少し耳が遠い。実際は全部よく聞こえているのではないかと思わせる場面も多いのだが、ともかく耳が遠いという事になっている。なんにせよ、一見客の問いかけはそれで何となく宙に浮いた様になり、そのままエアゾルの如くに広がり薄れて曖昧に消えていった。

 しかしすぐ背中側にある店の戸が不意にガラリと開き、いまにもそこから血に飢えた凶暴な虎が入ってきて自分たちに襲いかかるのではないかという不安が一部を除いた客たちの間で密かに蔓延していた。われわれはそれを敏感に感じ取っていたが、店主はあくまで普段通りにテレビ画面の鬼平を眺めては「ああ、やっぱり可哀想やった」とか独りごち、そのような不穏な空気など一向に感じていない様子である。これはきっと実際に虎がやって来ても少しも驚かず、いや気がつきもせず、へい、いらっしゃいとか長年の習慣通り声をかけそうで、まあそれもこの店らしいなとおれたちは感心、それで少し気が抜けた。それでもやっぱり虎に食い殺されるのは御免だ。ところで女将は女将で厨房の冷蔵庫を開けて「あ、もう葱もないわ。明日仕入れんと」とか一人でまたブツブツ言ってるし、やっぱり実際に噛みつかれたりするまで虎の存在に気がつかないんじゃないか。はは、まったく呑気な夫婦だ。虎は必ず現れるというのに。

 そうだ、虎。……虎といえば。あのウラジーミルの虎は、やはりまだこの辺りを彷徨いているのだろう。冷たい北の海を島伝いに泳いで渡ってきたという虎は、この路地裏で何を思って酔漢や身を持ち崩しかけた水商売の女たちを襲い食い殺すのか。私はその虎に想いを馳せる。やはり元は人間である虎なのかも。そうも考えられる。如何にも恐ろしげに語られる彼の国の残酷な人体実験、生物兵器計画の結果、それともやはり行き過ぎた自尊心や羞恥心により自らを虎と成したか……。いずれにしても外気で冷え切った縞模様の毛皮の下の熱い筋肉の更に奥、主要な臓器の辺りに宿っているであろう深い孤独、残忍な獣でありながらも何処かしら人らしいその魂を想定して、私は涙を流さんばかりの心情で咳き込む。そこで「マスクくらいしろ」と顔見知りの常連たちが言ってくるが、だからこれはあれではない。もっと孤独で文学的な私の業病なのだから、ごく程度の低いお前らなどには決して伝染らない。安心しろ。

 音量を小さく絞ってあるテレビから、微かに薄くジプシーキングスのメロディが流れていた。いよいよ鬼平もエンディングである。


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「いや、おれは虎を殺せるよ。これまで何度も殺した事がある」と有名な歌舞伎役者によく似た男が言う。さっき入ってきて、股の下を女客にくぐられた一見の客だ。この男は結構気前よく色々と注文して、よく飲み、よく食べた。いつの間にか常連とも気安く言葉を交わしている。それから虎皮で出来ているらしい財布を懐から出し、それをカウンターの上にバンと置いて「それで君、年収は幾らくらい貰ってるの? 虎の骨ってね、漢方薬になるんだよ。知ってるかな? 凄く高いんだ。だからね、かなり儲かってる。なにしろ、おれは虎を殺せるからね」虎狩りらしい男はそう言った。その虎縞の財布は確かにパンパンに膨れていた。

 その通り、私の年収は低い。だからこんな店で飲んでいる。身の丈に合った範囲で生活をしている。しかし精神はそんな事に縛られない。……否、じつはまったくの雁字搦めに縛られているからこそ、私の年収は低いのかもしれないと私は思い返す。学生時代に自分が馬鹿にした軽薄な同期生たちの大半は、いまでは社会的にそれなりの地位にもつき、恐らくは私の年収の少なくとも倍くらいは貰っているのだろう。あの時分は同じ様な位置におり、否、むしろ自分の方が明らかに教養に溢れ機知にも富んでいた、にも関わらず現在このような埋めがたい格差が生じているのは、このような有様になる人生を自ずから選択してしまったのは、己の心に巣くう臆病な自尊心と尊大な羞恥心とを御しきれずに、否、むしろ無遠慮に自我の中を暴れ回るそれらの獣を半ば進んで放し飼いに任せた、その結果であろう。否、そんな事は自分としては分かり過ぎる程に分かっている。だからこそ自分の身体も心も、いまこんなにも息苦しい。

 そこでまた自分が結核病に冒されているというイメージの元に作為的に咳き込もうとしたが、不意にそうした行為の根本的な虚しさ、延いては己の存在の虚無性そのものを非情に突きつけられたような心境に陥り、その男は咳をするのを止めた。

「たとえば風水的に考えてみてもね、虎というものは古来から……」なんて如何にも尤もらしい顔で一見客の男が虎について大声で語るのを否応なく耳にしながら、すぐ横に座っているあいつがさっきから妙に黙り込んでいるのが気になった。こういう路地裏の寂れたような小さい飲み屋で得々と自分語りをして、とくにそれが何かしらの自慢話の色を帯びていれば、それはもう確実に周囲のヘイトを集める。下手をすれば面倒事だって起こる。そういった場面を実際これまで何度も目にしてきたのだ。とくにあいつは分かりやすく劣等感にまみれ、いつも不機嫌な表情で周りの人間を睨めつけるようにして安い酒を飲んでいる。おれたちや、その他の客にも噛みつき面倒な絡み方をする事もあった。外を彷徨き回る虎も心配だが同時にこちらの様子も気になって、おれたちはどうにも落ち着かない気分でいる。



『トドを殺すな』という一部では有名なフォークソングがある。歌詞の内容が非常にプロテスタントで、だからそれを勤め先の忘年会で披露した事があった。上役や同僚たちが皆尽く興ざめして場が静まりかえるのを歌いながら肌で感じて、より一層に声を張り上げた。ざまあ見ろ、と私は思っていた。そして業務では明らかなお荷物だと社内でみなされている年配のある社員の名前を歌詞の「トド」の所に当て嵌めて歌ったりもした。そのときの私は異様な興奮に包まれ、ただ一人プロテスタント的な恍惚さえも味わっていたのだが、本当にトドなのは自分なのかもしれなかった。じつはそのときから分かっていた。歌い終わってわざとらしく咳き込んでいる私に「……いやあ、熱唱だったね」なんて声をかけてきたのは普段滅多に顔を合わさない営業の男で、如何にも心ない笑顔を貼り付かせていた。その後も酒宴は長く続いたが、皆はそれから何となく私をいないものとして扱った。

 虎狩りの男が必要以上に声を張って店中に響かせている自慢話を耳にしながら、この男は思っている。あのウラジーミルの虎も、結局いずれは無残に殺されるのだろうかと。「おれはね、女にだって抜群にモテる。虎を殺せるから、金を沢山持っているからね」たとえば金や詰まらない名声のために狩りを続ける、こんな虎狩り業者に。あれだけ冷たく残酷で孤独で、そして自由であろうあの獣が、このような下らぬ俗物に。

 ……許せない。それは決して許されない事だった。

 あの虎は、じつはあの歌の中のトドと同じ様な存在かもしれぬ。そして自分はトドなのであるから、つまり虎とも同じではないか。いまもこの路地裏の暗闇に潜み酔い崩れた人間の餌食を求めながらも同時に自身が狩られる恐れと紙一重のあのウラジーミルの虎と、この私は同一の存在なのだった。

「虎を殺すな!」と突然椅子から立ち上がって叫び、さらに続けて「トドも殺すな!」と叫ぼうとした瞬間、彼の姿は虎に変じていた。


 かつて彼であった虎は徐々に失われていく彼としての意識の中、彼が若い時分から親しんだ古典文学、彼が自分に擬えていた或る作品の主人公と同じように自分がついに虎に変わった事に対して、魂から沸き立つような歓喜をどうにも抑えられなかった。突発的に噴出して人としての彼が最後に叫んだ怒り、そしてそれに続く変身によって、彼の肺腑の奥底に宿っていた結核菌は彼の人格と共に急速に消え失せる。彼であろうとして彼がしがみついた事をその瞬間に彼が捨てた事により、彼は人の世では得がたい自由を得たのであった。
 
 その虎の爛々と光る眼は、カウンター席にまだ座っている虎狩りの姿をはっきりと捉えた。何となく舞台映えがしそうな大作りで整った顔に驚きの表情を貼り付かせて、虎刈りの男は咄嗟に身動き出来ずにいた。……こいつ、やはり喰らい殺しておこうか。寸刻前まで店の常連客であった虎は思ったのだが、こうなってはそれも馬鹿らしい。さっき食べたチーズ入りのタコ焼き、それから串揚げ五本セットで腹は充分くちている。本質的に卑賤な人間の事など最早どうでもよく思われ、ただチラリと一瞥を投げ、それから店の引き戸をネコ科の猛獣の前足で器用にガラリと横に開けて、一匹の雄虎は飲み屋通りの路地の奥に走り去った。われわれは、その一部始終をたしかに見ていた。

 ……ああ、あいつも虎だったか。見事に変化した。こんな事、実際にあるんだな。マジか。これまで虎を何匹も殺した自分としても驚いて、思わず固まった。しかしやっぱりあの虎、おれは狩らなきゃいけない。何故なら、おれは元禄から続く由緒ある虎狩りの十一代目なのだから……虎刈りの伊達男は口の中でブツブツ言って、ようやく腰を上げる。老店主は鬼平が終わって次に見たい番組を探してテレビのチャンネルをザッピングするのに夢中、女将はさっき注文が入ったとん平焼きを作っている。だから夫婦共に常連の客の一人が虎に変じて店を出ていった事に全く気づいていない、或いは意に介していない様だった。

「釣りはいらないよ。これから一仕事だ、こっちも景気良くいきたい」「こらおおきに、えらいすんませんね」「毎度あり、また来たってや」どうやら虎狩りの男は金を幾らか多めに置いていったらしい。しかしチラリと見えた限り、どうも千円札が数枚程度、実際に飲み食いした分から考えて、そこまで太っ腹なわけではない。その証拠に「……なんや渋チンやんけ」と店の親父さんが小さく呟くのが聞こえた。大体この店は元の価格設定が時代錯誤なまでに安い。どんなに大盤振る舞いしても知れた値段にしかならない。だとしても、じゃあいっそ景気よく万札でも置いてけば良いのに。そう一人が言って、そうだそうだ、と急におれたちは盛り上がり、そこで何となく乾杯。ここは懐の淋しい飲んべえに優しい良い店だ。ときどき虎は出るにしろ……。さっきまでの騒ぎには驚かされたが、どうやらやっと一息つけそうだった。

 そこから夜も更け、そこそこ賑わっていた客が粗方捌けてきた頃、老店主はテレビのニュース番組を何となく眺めていた。海外で起こっている戦争、そして世界的に蔓延している感染症についての報道ばかりだった。「……コロナだかコロリだか、よう分からん」ポツリと老店主がこぼすと「ほんまやね。そういえば、コロリいうのもあったねえ」と女将が皿を洗いながら応える。この国がもう間もなく開国されようという時代、この夫婦は九州地方に暮らしており、そこでもやはり小さな一杯飲み屋を営んでいた。そして海の向こうからやってきた黒船が持ち込んだ虎狼痢と呼ばれる伝染病によって、自分たちの周りでも大勢の人が死んでいった。

 後片付けを済ませて明かりを消して戸締まりをした店の外、駅裏の飲み屋通りの路地の暗闇に潜んでいるのだろう虎たちは身も心もすっかり持ち崩した酔漢たちを今夜も何人か食い殺し、その中には先程までこの店で飲んでいた客も含まれていたかもしれない。或いは、その人食い虎は目の前で虎に変わった常連の一人を追っていった虎狩りの男に退治され、皮を剥がれ肉も削がれ骨身までむしり取られてしまったかもしれず、しかし虎同士で意気投合して群れとなり軽薄なあの虎狩りを逆に追い込んで一方的な狩りを楽しみ無残になぶり殺している可能性もあった。または縄張りを強く主張する虎同士相容れず、激しい争いも起こり得る。現在確認されている虎は、少なくとも雄と雌一匹ずつ。ウラジーミルの虎は、じつは未だ性別すら分かっていない。

 しかし人食いの虎たちがどうなろうが、この店には実際あまり関係ないのだった。もうはるか遠い昔、店主夫婦がこの島国に渡来してくる以前に暮らした土地では人が虎に変ずる事もそう珍しい事ではなかった。だからこの店の周りで何が起きようとも、そこまで驚きはしない。「わしら何年キチガイ水売ってる思ってんの」というのが老いた店主の口癖であり、それが何百年と変わらない事を、われわれはよく知っている。


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