家族が亡くなるということ
今日はあるイベントに参加して、自分の家族が亡くなった出来事をいくつか思い出した。
兄の突然の死
まだ寒い3月中旬、自分の下宿しているアパートに電話が入った。
母からだった。
「驚かないで聞きなさい。お兄ちゃんが亡くなった・・・」
驚かないわけにはいかない。え?何言っているの?
突然倒れて、そのまま病院へ。でも息は戻らなかったという。
兄は30歳を過ぎたばかりだった。
母の心臓の病気
母の心臓があまりよくないことは知っていたけど、本人はあまり口にしなかったのでそれほど大きくとらえていたかった。
しかし病状は進行していた。
また病院に入院したと聞いた矢先、病院先で手の打ちようがないという。
ご家族様にとっては理解していただきたいということだった。
その頃わたしのお腹に子供を宿していた。実家に帰って母のお見舞いに行ったときひどく苦しんでいる。見ていられないぐらい苦しんでいる。
それは放置されていた。あまりにもひど過ぎる。
父に言っても、病院側は手の施しようがないと言うから仕方ないという。
何だって!??????????????
冗談じゃない、と私が立ち上がる。すぐに頼りにしていた師匠に連絡。
すぐ榊原病院という心臓関係に明るい病院を教えてもらった。
そして榊原病院に連絡し、事情を説明したら母を受け入れてくれるという。
そこまで話をつけた。あとは父だ。父に散々説得して、今いる病院の許可を頂き、転移することに。救急車で東京の味の素スタジアムのそばにある場所に移った。即手術になったが遅かった。しかし苦しみから逃れられた母がいた。そこの病院の先生は、もう少し早く来ていただければ手の施しようがあったのですよ、と。
私は激しく後悔した。病院は人の命を守ってくれる場所だと勘違いしていたのた。自分たちの許容範囲でなければ、苦しんで死ぬのか・・・知らなかった。ならば許容範囲が広い専門分野の病院に行かなければ治らないのかと初めて知った。
ただ救いだったのは、母が亡くなるまえには苦しみがなくなったことだ。「娘を産んで本当に良かった」と母が言った。
でも、ごめんお母さん、もっと知恵のある娘だったら・・・って、つい振り返ってしまう。
父の癌
父は腎盂癌だった。
年の初めに実家に帰った時に、父が少しやせていた。
それは癌の仕業だったのだと、今思い出せばそうだったと思う。
癌であると分かったのは、夏の終わりごろだった。
かなり進行していた。
病院は病状を直接本人に直接伝えないものなのだろうか。
家族の私にだけ伝えられた。
癌を摘出すれば希望が見えると思っていたので、父に本当と事を伝えることはしなかった。だって私は知っている。父はとても臆病者だから。
しかし、開腹しないと癌というものはどこまで体に回っているのか分からない。そして手の施し様がない状態だった。
父は余命半年、もしくはもっと短いかもしれないと言われた。暮れの事だった。
病院の先生が言ったように、次の年の6月に父は亡くなった。
兄の突然死が、私の中で一番堪えた出来事だった。
だって兄だ。自分が老人になってもいる人だって、誰だって思うじゃない?兄弟だもの。
兄は変わった人で、そして誰からも親しまれるようなタイプの人だった。
知らない女性に突然話しかけられて、悩みを相談されたことがあるとか、兄は本当に宇宙人だった。ヘンテコリンな兄が自慢で、そして仲良し兄弟だった。
子供が先立たれた両親の悲しみもあると思うけど、兄弟だって同じだ。
自分の分身のような存在がいなくなる。
あまりにもショックで、兄が亡くなった年の季節をあまり覚えていない。
いつの間にか次の年になったような感じだった。
時々考えていたのが、兄が病院に連れられたときなぜAEDとか心肺蘇生をしなかったのだろうということだ。数年前に読んだ本によるとAEDは本当に体に負担が掛かるそうだ。その本を読んで私なりにようやく腑に落ちた。
家族のそれぞれの亡くなり方がある。
ふっと小学生の時に、家族でこたつで花札やオセロなどして楽しんだ昭和の団らんを思い出した。私がこんなに早く家族を見送るなんて、って思う。
人の生き方があるように亡くなり方も様々だなあと思う。
家族の死は、一番自分に身近に感じる「人の亡くなり方」なのかもしれない。