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満足に働くということ

このところ、フルリモートの廃止や事業についてエンジニアは理解すべきか等、働き方に関しての議論が頻繁にX(Twitter)で行われています。

様々な背景や立場の違いから、決して結論がでない難しいテーマだなぁといつも思います。

そう言う私自身も、昔は働き方に悩んだり、進むべき方向性の選択に迷っていました。

しかし、結婚や子育てのライフイベントを通して「満足に働くってこういう事なんだ」と一つの結論を持ち、今ではそれに沿って行動しています。

もちろん、それが誰にでも当てはまるものだとは思いませんが、人生に迷った誰かの参考になればいいなと記事にしてみることにしました。

つまりポエムです。

・満足に働くのは自分にとってどんな事かを考えた事がない
・リモートワークやフリーランスを考えている
・1 on 1が苦手

そんな方の参考になれば幸いです。

ところで誰やねん

育休中にプログラミングスクールRUNTEQに通い、30代でエンジニアに転職した2人の子持ちのたぬき♀です。

満足している状態とはどんなとき?

フルリモートをしたい
エンジニアだから事業のことは別に知りたくない

これって、わがままでしょうか?

わがままだ、と言う人も
それもアリでしょ、と言う人もいるでしょう

では、フルリモートでなければ満足に働けないのでしょうか?
また、事業を理解しないと、社員は満足に働けませんか?

社員満足度やエンゲージメントなど、様々な言葉の定義がありますが、ここで言う満足とは、自分が満ち足りた状態のことです。もっと具体的に言うと

「あぁ、なんか大変だし不満や不安がないわけじゃ無いけど、充実していて楽しいな」

と思える毎日を過ごすことを指しています。

まず考えて欲しいのは、あなたの人生のなかでそんな”満ち足りた”瞬間というのはどんなときか、ということです。

給料が上がった時でしょうか?
契約が取れた時でしょうか?
フルリモートで働いている時でしょうか?
事業を理解した時でしょうか?
学生さんであれば、受験に受かったときや部活で優勝したときかもしれませんね。

実は、満ち足りた瞬間には共通点があります。

私は、自分が成長したとき、またはそれを実感したときに、人は満足感を感じるのだと思います。

これは別に目新しい事実ではなく、物事の達成が個人のウェルビーイング(幸福)を左右することはよく知られ、そのために仕事の難易度を調節することはマネジメントやストレスチェックでも活用されています。

しかしウェルビーイングやエンゲージメントなど論理的な理屈に埋め尽くされて、意外にも「どう働いたら自分は満足なのか」を考えたり意識している人は少ないのではないでしょうか。

言われると当たり前のようでいて、実はしっかりと認識していない事実がこれだと思っています。

繰り返しになりますが、

「あぁ、大変だったけどやって良かった」
「なんか忙しいけど、充実してる」

あなたが感じたことがあるだろう、そういう場面の繰り返しが続く働き方が、満足に働くことだと私は思います。

しかしそれは、制度や福利厚生でどうにかなるものではなさそうです。まずはそう実感した私自身のエピソードを語ってみましょう

どんなホワイトな制度や福利厚生も、自分を満足させることはできない


ここで言いたいのは、福利厚生や制度を私や個々人が満足するように合わせろ!という話ではありません。どんなにより良い制度を作ろうと頑張っても、人はそれに満足し続けることはできない、という話です。

なぜなら、人はライフイベントや考え方、知識、周囲の環境など様々な変化が必ずある生き物だからです。

例えば、分かりやすい変化に”子供が産まれる”というライフイベントを見て見ましょう。これは、私の第一子出産後の実体験です。

私の前職は製薬企業でした。超ホワイトです。土日休みです。給料も良いです。職場や顧客との人間関係も良いです。もちろん、産育休や復帰後の時短もあります。報告すれば直行直帰もできます。コアタイムありのフレックスもあります。復帰がコロナ禍の終わりかけだったのでリモート体制もできていました。
いい会社であり、いい制度・福利厚生でした。

では、私は満足して働いていたのでしょうか。

答えはNoです。当時、私は仕事に対して鬱屈した気持ちや、何となくの不安感を常に抱えていました。

まず、復帰前よりも担当施設がぐっと減りました。時短かつ第一子の復帰後ということで、無理せず様子を見ながらゆっくり働けるようにという配慮でした。(いい会社で優しい上司です)

また、大きな病院の担当から外れました。これも、その病院の面会時間が17時以降だったため時短である私では担当できなかったからです。同じ理由で、講演会の企画・運営も基本的に夜の仕事になるため手放すことになりました。

何も悪いことは無いじゃないか、むしろ育児がしやすそうだ、と思われるでしょう。私も当時それを有難く感じていたし、だからこそ悩み傷ついたのだと思います。

何が起こったかというと、まず担当先が減ることで売り上げを作ることが難しくなりました。また、新しく何かを考えて企画する機会はぐっと減り、ただ毎日訪問先を回って顧客と話すことが仕事になりました。何かに挑戦し、達成する機会がほぼ無かったのです。
また、病院の担当は後輩に渡ることになり、「大きいとこ怖いからやりたくないですよ!早く代わってくださいね」と言われました。

全く悪意は無く、善意と軽口の混じった言葉なのは分かっていたので笑って返答しました。

ただ、この時私が感じた感情は、
「私だって本当はやりたい」
「自分は、この場所で役に立てていない」
「このままでいいのだろうか」
という焦りや無力感、鬱憤でした。

「いやいや、そこまで配慮されてそれはわがままでしょw」
「それは個人の承認欲求や感情の問題で働き方や制度の話とはまた違う」
と思われるでしょう。

そうです、感情論です。でも、労働者は感情的です。仕事がしんどいときや辞めるとき、感情が伴わない事例の方が珍しいでしょう。

これはどんな働く人にも実際に日々起こり得ることなのです。

現に、同じ条件で働いている私の同期は人それぞれ同じような鬱憤を抱えていました。
「保育園に預けるときにすごく泣くから可哀想で、何のために仕事してるのかなと思う」
「北海道に住んでいるけど実家は関東だから、この先このままではいられないと感じる」

人は、個人によって状況も、価値観も、ライフイベントも、生い立ちも、仕事への想いも異なります。

その個人でさえ、見るもの、得た知識、出逢った人、起きたことによって、タイミング次第で価値観や優先するものが変わります。

私や私の同期が求めるままに、夜の仕事中預けられる保育制度や、週3で働ける制度、転勤先を自由に決められる制度を整えればいっときは満足して働くことができるでしょう。ただ、私たちがそれで永遠に満足して働けるかというと、それはあり得ないのです。

よくXで勃発する論争は、この矛盾が現れているなと思います。

ある立場から見れば、それはわがままに見えるでしょう。
ある立場から見れば、それは非常に現実的な感情でしょう。

自分が満足に働くためには制度云々の話ではないのだというのを理解していない人と理解している人が混じり合って議論しているのです。不毛地帯です。

ですので、制度というのは従業員を尊重しすぎても意味を為しません。創造性・生産性の向上や、人材の確保・流出阻止など、自社にメリットや効果があるかどうかで作らなければいけないのです。

コストだけが膨らむ場合などに、状況に応じて会社が制度を廃止することに対して、文句や労組を立てたところで交わるわけがありません。あちらは、文句が出ることも、その状況に適応できない人間がいることも充分理解しています。
(会社への愛着や信用が下がるというのはまた別問題として存在すると思いますが)

話が少し逸れてしまいましたが、「ぼくがかんがえた最強の制度」は存在しないのです。

では、どうすれば今ある制度の中でそんな不満や鬱憤を抱えずに働くことができるのでしょうか。

改めて満足に働くということについて考えていきます。

自分を成長させるのは”やってみたい”をやること


先程、成長を実感することが満足に働くことだと述べました。

では、人が成長するときとは、いつなのでしょうか。

持論に過ぎませんが、私は人が成長する最も効果的な機会とは”やってみたい”という気持ちに対し素直に挑戦するときだと思います。

もちろん、新人時代に初めて任され経験した仕事の後も、「あぁ、大変だったけどやって良かった」と思うことはあります。"成長"というキーワードだけで見れば、受動的なものであっても別に良いのです。

ただ、満足に働くという面を見ると、"やってみたい"をやれるかどうかは大きな要素になります。
「大変そうだけどやってみたいかも」
「できるか分からないけど憧れる」
という心の声にどれほど素直に行動できるかが、あなたの満足度を高め、そして成長を促すと考えます。

逆に言うと人がストレスを感じる大きな要因は、やりたいことを抑制されることなのです。

  • エンジニアとして就職したのにコードが書けない

  • 改善提案をしても聞き入れられない

  • 育児をしているがもっと仕事がしたい

できない、を並べるだけでもストレス溜まってきますよね。離職の理由調査などをみても、同じようなものが並んでいます。

嫌だ、辛いという気持ちの裏側には"したい"があり、その上位互換に"やってみたい"という前向きな挑戦があります。

これに気付いたのは、我が子の成長を見ていたからです。物心がついた子供は、基本的に「いやだ」と「やりたい」で生きています。やりたい事ができなければ寝転がって喚き泣きます。親を真似して「掃除機をかけたい」「お米を洗ってみたい」と言い、やらせてあげるとめちゃくちゃ満足した顔で去っていきます。きちんとできたか、成功したかは別に重要じゃないのです。(ママパパ、毎日お疲れ様です!!)

また、先ほど例に挙げた育休復帰後の私の不安を解消したのは
「この仕事いけそう?家庭的に難しそうなら他に振るけど」
という仕事をやってみようと思い引き受けて、やり遂げたときでした。
配慮してもらっておいてかつ不安を感じておいてなんですが、正直第一子の育休明けの家庭と仕事の両立は泣きそうなほど大変でした。なぜなら、夫が単身赴任してました。ワンオペ、時短です。だからこそ、迷惑になってはいけないとなるべくタスクは持たず不安があることも黙っていました。

ですが、その仕事をやってみたいと思い、「やりたいけどデモデモダッテダッテムリジャナイヤメトケ」と言う自分の副音声を黙らせて「やります!」と言ったところから鬱屈している暇など無くなったのです。


このように、人が成長する最も効果的な機会とは”やってみたい”という気持ちに対し素直に挑戦するときであり、それが働く満足度を高めると考えています。

一方で、子供でも大人でも、やりたい・やってみたいことだけをやるのは難しいですよね。「それはわがままだ」と思われるでしょう。

冒頭から出ているこの"わがまま"というのがもう一つのキーワードで、ほとんどの人はこの言葉に抑圧され、やってみたいと思っても行動に移すことを躊躇います。

難しいのは、実際にそれはわがままであり、わがままでは無いのです。

語彙力が無くて何言ってるか分かりませんが、次からは具体的にやってみたいを実行できる条件について考えます。

やりたい・やってみたいをやるには

自分がやりたい事をやるためには、二つの要素が必要だと考えています。
1つ目は、自分の責任の話です。
2つ目は、環境要因です。

1. やりたい事ができるのは、それが出来るよう努力し、調整する力がある人だけ


冒頭の問いかけに戻りましょう。
フルリモートをしたい
エンジニアだから事業のことは別に知りたくない
これは、わがままでしょうか?

やりたい、というのは大前提としてわがままです。しかし上記の答えは、対象人物の人柄や能力によっても変わるのではないでしょうか。なぜ、許される人とそうで無い人がいるのでしょうか。技術、人柄、コミュ力……何があればよいのでしょうか。

これも経験からくる個人の意見に過ぎませんが、私はやりたい事をやるために、自分でその環境を整える努力ができるかどうかが大きな違いであると思います。

例えば、先ほどの私の事例を見てみましょう。上司から振られた仕事をやってみたいと思った私は、まず他県に住む実母に3ヶ月手伝いに来てくれないか交渉しました。また、自分の仕事に1,2年目の後輩を巻き込み、後輩にやり方を見せながら自分が突然休む場合を想定して人員の確保をしました。
「自分の子供の面倒すら自分1人で見られないなんて、母親失格かもしれない」
「今は仕事に打ち込むべきでは無いかもしれない」
「後輩を都合よく使っているだけではないのか」
「これは私のわがままでしか無い」
元々人を頼るのが苦手だったのもあり、初めはそんな葛藤がありました。
しかし、メンバーと一緒に達成したい成果を説明し、やってみたいを実現できるように行動を続けると、私の葛藤とは逆に周囲からの協力や理解は増えていき、評価も「良くやっている」「新しい事例を作っている」という前向きなものになっていきました。

少し分かりづらい実例で恐縮ですが、自分がやりたい事をやるには、自分でそれができる環境を作る努力が必要なのです。
それは、誰に何も文句を言わさない技術力を身につける事かもしれません。
もしくは、人脈をたくさん持つことかもしれません。

フルリモートがしたい、というのをわがままではない状態にするためには自らコミュニケーションや成果を示し、それが可能な人物である事を発信する必要があります。

エンジニアだから事業については知りたく無いと思うのであれば、あなたはそれが可能なだけの技術力やそれが許される人間関係を築かなければいけません。

やりたい・やってみたいをやる為に、誰かが何かをしてくれるのを待つという状態であれば、それはわがままです。

やりたい・やってみたいをやる為に、誰に、何を、どうやったら可能になるか考え、実現するために対話や行動し実現したならば、それはわがままではありません。


この判断基準を持ってから、私は生きるのがとても楽になりました。

・やってみたいかどうか
・その環境を整えるリソースが今の自分にあるかどうか

この二つで、進むべき方向の選択をできるようになったからです。やりたいと思った仕事をむやみに何でもかんでも巻き取れ、ということでは無いのです。

気持ちや身体が病んでいるときは、「やってみたい」の気持ちが起こらないこともあるでしょう。でも、それでいいのです。無理やりやっても成長も満足しません。

やってみたくても、それを実現するリソースがない場合もあるでしょう。母の手伝いが無い時の自分がそうです。優先すべきものは家庭に重きがありました。それもあなたの「やりたいこと」なのです。だから、仕事と家庭で悩む必要は無いのです。

やってみたい、が実現しないこともあるでしょう。しかし、それを実現するために上司や関係者と対話をし精一杯行動した結果であれば、それは実力不足なのか、環境の問題なのか、あなたにとって何かしらの次の道が見えるでしょう。

また、誰かが自分の「やってみたい」を馬鹿にすることもあるでしょう。例えば、未経験者がプログラミングスクールに通って転職することを無駄だと言う人がいますが無駄じゃないです。
そのお金を用意し、仕事終わりの時間を捻出し、結婚しているのであれば配偶者の理解を得て、”やってみたい”をやれる環境を自分で作り行動して実現しているあなたは、とても充実した素敵な時間を過ごしているのです。他人の意見などどうでも良いことです。

やってみたい、を大切にすること。
そして、そのときに実現できるように普段から技術の向上や、人間関係を自ら作る努力ができる人

そういう人のやりたい・やってみたいは、何もわがままでは無いのです。

2.やりたい事を傾聴し、サポートしてくれる環境であるか

上記で述べたように、いくら自分が努力しても変える事ができない環境というのもあります。別にそういった組織を批判したいわけではなく、制度が自分を満足させないのと同じく認識しておくだけで感情的な立場から客観的になれるのでまとめてみました。

さて、やってみたい、という言葉がでるときというのは、基本的に自分にとって・もしくは会社にとって「初めて行われる変化」である事が多いです。

仕事というのは、顧客がいます。また、会社の持ち主である社長や株主が居ます。そして、利益が出なければいけません。大きい会社であればあるほど、あなたの求める変化が、会社にとって望ましい変化ではない事が多いでしょう。

また、会社規模の変化では無くとも、上司や周囲がその変化を厭う人たちであれば、あなたのやりたい事をやるのは難しいでしょう。会社の社風や風土を変えることは基本的に困難です。その場所で、どれほどあなたが努力してもがいても、無力感を感じて病むことが多いです。

  • 大企業の優秀な人が、給与が下がってもベンチャーなどに転職する

  • 公務員が民間に転職する

こういう方々とお話しする機会もこれまでありましたが、やはりやりたい事とやれない事のギャップを感じている方が多かったように思います。

「いわゆるブラック企業だろう」

と思われるかもしれませんが、意外と会社や環境と軋轢を生む身近な例に1 on 1などの面談があります。

よく1 on 1のやり方の記事に、アイスブレイクとして「最近何してる?」「趣味ややりたいことはある?」という問いかけがあります。
だいたいはそういった家庭や趣味の話題は、信頼関係構築のための雑談として終了するのでは無いでしょうか。もちろんその側面も大いにありますが、そこで本当に知るべきは
・いまライフにおいてやりたい事が何なのか
・それが仕事で抑圧されていないか
です。そこに乖離が出てくると、どんどんと仕事への満足度も低下します。

今回の考え方で言うと、ライフワークバランスとは、ライフとワークのやりたいことのバランスが取れている状態だからです。

ありがちなのが、例えば趣味のやりたい事の話をしていたのに「それはそうと、仕事面では….」と急に目標の進捗やプロセスの話に切り替わるやり方です。
ライフのやりたいことを仕事と分けて考えると、話をしている側としては「今までの話必要だった??」と違和感を感じます。本人に不満がない場合や雑談の目的を最初に擦り合わせている場合は楽しい雑談ですが、そうでない場合は徐々に不信感に変わるのです。

また、やりたいことが仕事である人に対し「今は家庭を大事にしなよ」「今は子育てに専念しなよ」と意思を擦り合わせずに仕事を勝手に調整したりすることも危険です。

ブラック企業で死ぬほど働いている人と、同じ量だけ自ら死ぬほど働いてイキイキしてる人、何が違うのでょうか。
仕事が好きだから?能動的だから?
それも正解だと思いますが、仕事が自分のやりたいことだからです。おもちゃを良かれと思って取り上げているのです。(ライフを大事にする人にワークを強要するのも言わずもがなです)

「この人は、私のことを何にも理解していない」
「私には期待していないのかも」
メンヘラぽいですが、行き着く先はそういう感情に行き当たります。

プライベートの話もして、仕事も配慮して、信頼関係ができていると思ったのに突然やめたりする中に、そういった違和感の積み重ねが原因のことが実際にあると思います。

ですのでもちろんライフのやりたいことを否定したり、聞かれてもいないのに自分の経験談を語り押し付ける、またはそもそも傾聴する姿勢がない人は不満を持たれやすいです。
こういう方は、仕事熱心な方も多いです。他人のライフを仕事より軽視し、そこは自分の範疇ではない、自己責任だと思っているのです。

仕事という範囲で言えば間違ってはいないでしょう。前項で述べたように、そもそもまずは自分が行動するための努力や主張、コミュニケーションを行うべきです。しかし一方で、Xの議論のようにマネジメントと部下の間で見ているものが違います。共通認識を持ち目線や目標のすり合わせができていないのです。

………なんか環境要因の話から逸れてきましたが(すみません)、環境や他人は基本的に自分が変えられないものの一つです。
環境や制度に一喜一憂せず、前項で述べたように結局は自分が何をやりたいかを意識し、行動し続けることが大切だと実感しています。また、転職などで現在の環境を変えるのであれば、そこがだれかの挑戦を前向きに捉えてくれる成長しやすい場であるかは、あなたが満足に働き続ける上で大切な要素かもしれません。

さいごに


個人が努力し、それが実行可能な状況であっても、人のやりたいことを否定される場所もたくさんあるでしょう。そのとき「やりたいことをやるのはわがままだ」「誰かに頼って迷惑をかけたくない」と思う気持ちもとても分かります。

ただ、ここまで述べてきたように、ライフのやりたいことも、ワークのやりたいことも、素直に行動に移すことが"満足に働く"であり、ライフワークバランスだと私は思います。

好きなお酒をテーマにLT会を企画してみる、一人焼肉してみる、コミケに参加してみる。

直近の仕事にはきっと関係がないでしょう。でもやってみたいならやるべきです。優先度はあるにしても、実行して無駄なものは何一つ無いです。なぜなら、やってみたいを行動に移すと絶対に何かしらの満足感や充実感を得るからです。

RUNTEQのコミュニティがすごいのは、運営や受講生がその人のやりたいことを否定しない文化だからだと思っています。
「いいね、やろう」と言ってくれる場所は、意外とありません。だからこそ、「自分には無理だ」と思わず、この場所で自分がやってみたいことは何なのかを考え、それを実現できるよう行動してみると「あー、なんか大変だけど楽しいわ」が得られるかもしれません。

人それぞれの生き方や考え方があるので、私の意見への異論はもちろんあるかと思います。あなたの満足に働く・生きるということについてもぜひコメントで教えてもらえると嬉しいです。

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