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①なぜ「楽しく過ごせる学校にしたい」と思ったか <西郷孝彦さん講演会>



コンパルホール・文化ホールで講演する西郷孝彦さん(2024年7月27日=写真①)

記事・写真 三浦順子

はじめに
2024年7月27日、大分市のコンパルホールで西郷孝彦さんの講演会が開催されました。西郷さんは自由な公立学校として知られる世田谷区立桜丘中学校の元校長で、現在は全国各地を講演などで飛び回っています。この講演会を主催したのは大分市の団体「たのしいproject」。代表の岡原ゆかりさんが西郷さんにお願いしたテーマは「生きたい社会のつくり方」。西郷さんが校長として育んだ桜丘中は、校則や定期テストをなくし、服装も自由な画期的な学校となりました。私たちが暮らす社会には、どこかに不具合があったり、なんだか居心地が悪かったりすることがあります。このままでは良くないことが分かっていても「変えること」ってとても難しい。西郷さんが桜丘中で実践したことはいったいどんなことだったのでしょうか。講演の内容をできるだけそのままに、6回に分けて連載します。

講演タイトルの写真は宇目町にあるトトロのバス停(写真②)

みなさんこんにちは。(さっきまで)大分県立美術館に行っていました。美術館からここまで歩いてきたら本当に暑くてびっくりしました。昨日は涼しかったんだけどね。美術館でゆっくりと広重の東海道五十三次を観ることができました。退職すると、自由な時間がたくさんできていいですねー。笑。
 今日は主催者の方から、こういうお題をいただきました。「生きたい社会のつくり方」。学校はよく子どもたちにね、今ある社会に合わせなさいと言う。「そんなに遅刻してたら、今の社会では通用しませんよ」みたいなことを言ってる。…いやー、面倒くさいですねー。「自分に合った社会に変えればいいじゃん」って僕はいつも子どもたちに言ってる。今ある社会に合わせる必要はない。自分たちで社会を変えなさい、って言っていたんで、この題は僕にぴったりだなって思っています。

桜丘中の校長室で過ごす子どもたち(写真③)

・電話の向こう側で泣いていたお母さん

これは僕の学校の校長室に来た子どもたちの写真です(写真③)。2人とも授業に出ていません。左側の赤いバンダナをしている子は優等生で、勉強ができるんですよ。小学校で自分のクラスが学級崩壊したときも、ちゃんと一番前に座って授業を受けてたっていう真面目な子なんだ。でもその子がね、中1の10月頃になって突然授業に入れなくなったんだよ。だから授業中、校長室に来てる。何があったんだ?と思うけど…、いや、本当は「どうしたの?」って聞きたいんですよ?。だけど子どもだってプライドがあったり、言いたくないことがあるだろうなと思うから、極力聞かないことにしている。そのうち自分で理由を言うんだろうな、と思って待っていた。
 そうしたら、学校の近くのファミリーマートの店長さんから電話があった。この子が朝5時半にお米を買いに来たっていうんだね。中学1年生の女の子が朝5時半にお米を買いに来るっていうのはおかしいから「校長先生、なんかあったの?」って電話をくれた。それから次に、ボランティアで地域清掃をしているおばちゃんから電話。いつも土曜日の朝、子どもたちを集めて駅前だとかを掃除している人なんだ。「〇〇ちゃんは小学校のときは毎週清掃に来てくれていたのに突然来なくなった。何かあったんですか?」って。最後には、保健室の養護の先生が校長室を訪ねて来て「校長先生、どうもあの子が保育園に行っている小さな子の送り迎えをしているみたいですけど、何かあったんですか」って。その3つの情報が入ってきた。…みなさんはどんなことがあったと想像します?。僕は、ネグレクトかなと思った。学校の中には校内委員会っていう、こういう事例を検討する委員会があるんです。で、すぐ集まって話し合った。担任も含めてね。でも結論は出ない。仕方がないので校長の僕が家に電話することになりました。お母さんにその子が授業に出ていないことや、いろんな人から電話が入ってます、っていうことを言った。僕は「虐待かもしれないと思って電話したんです」って言っちゃった。お母さんは「そうですか」って、電話の向こう側で泣いていた。要はご病気で寝たきりになっていたんですよ。母子家庭のおうちで、本当は入院しなくちゃいけなかったんだけど、小さい子がいるから入院できない。自分が入院しちゃったら、誰も面倒を見てくれないから。それで、行政の福祉のほうに繋いで、あとは学校の民生児童委員だとか、お世話してくれる方たちにすぐ連絡した。無事入院ができて、地域の人が送り迎えをやってくれたりご飯を作ってくれたりした。1カ月ぐらい入院されていて、無事退院できました。

・勉強を教えればいいだけの場所じゃない

 右側の子は小学校4年生のときから保健室登校。学校には来るんだけど教室に行かないで保健室に入っていく。で、理由はやっぱり聞かないんですよ。尋ねても、子どもって本当のことは言わないに決まってる。
 入学して2学期の11月頃、こうやって校長室によく来るから、世間話をしていた。ある時ふとね、自分から言った。「小学校4年生のときに、私が短いズボンを履いていたら、男の人からお尻を触られた」…怖いよね。それで、学校に行きづらくなった。難しい話だよね。どういう大人なのかなーって…それ以上聞かなかったんですけど、要は信頼していた身近な大人なんでしょう、そういうことをしたのはね。だから学校に行けなくなった。なるほどね、大変だったね、って言った。2人とも無事卒業して高校に行きました。今、バンダナの子は保育士さんの大学に行ってる。右側の子は2回目の高校3年生をやっています。
 学校は勉強しに行くところっていうような割り切り方はできない。いろんな子どもたちがいろんな悩みや、いろんな課題を抱えてくるところなんですよ。だから、ただ単に勉強を教えればいいというような単純な場所じゃない。本来は学校の仕事じゃないのかもしれないけど、それをしないと学校でやっていけない。だから先生たちは忙しいんだよね。…大丈夫ですかみなさん、あんまり反応がないですね。笑。

横浜・本牧にある米軍基地は西郷さんの思い出の場所(写真④)

・米軍の「ハウス」の中で遊んだ少年時代

ここで自己紹介をします。僕は、横浜の本牧っていうところで生まれました。米軍の基地があって、ちっちゃい頃からこの中で遊んでいた(写真④)。ハウスって言われていましたね。アメリカのテリトリーで治外法権だから、本当は中に入っちゃいけないんです。でも子どもは許されていた。アメリカ人の友だちもいた。アメリカ人の子ははっきり物を言うから、いつもケンカしてね。ケンカするにも英語をしゃべらないといけなくて大変でした。下の写真は軍人さん。その向こう側にPXっていって、スーパーマーケットが写っています。まだ日本にスーパーマーケットっていう言葉がないときです。なにしろでっかい体育館みたいなところに何でも売っていた。みんなお小遣いを貯めて、歩いて軍人さんに「チェンジマネー」って、日本円をドルに変えてくれっていう。当時は固定金利制で1ドルが360円だった。やっとお小遣いを1000円貯めてその辺を歩いている軍人さんに「チェンジマネー」って言うと3ドルぐらいになるはず。でも、なんとね、20ドルとかくれる人がいるんだ。子どもが好きな軍人さんもいるからね。で、その20ドルを持って行って買い物する。ローリング・ストーンズのLPが、6ドルか5ドルくらいで買えた。あと、洗濯に使うようなこんなでかいバケツに全部アイスが入ってる、それが10ドルだった。それを買ってきて、10人ぐらいで食べても食べきれない。アメリカってのは、すっごい国だな、こんなバケツに入ったアイスクリームを売ってるのか…っていうのが僕の原体験ですねー。で、ケンカしたくても英語ができないから、早く中学校に入りたいと思っていた。英語の授業があるから。でも、入学して、最初の英語の授業でがっかりしました。僕が入った中学の英語の先生は英語をしゃべれなかった。発音もなんか変。文法ばっかりやっていて、全然役に立たない。これはまずい、英語は自分で勉強しようって思った。

講演当日は青い夏空が広がっていました(写真⑤)

・何をしていいか分からず腕を組んでいた

それから時が経って教員になりました。最初に勤めたのは、当時の東京都立北養護学校。今は特別支援学校と名前が変わりましたが、重度の重複の肢体不自由児の学校です。学校の隣に北療育園という病院付属の施設があって、そこから子どもたちが学校に来るというようなところに勤めました。あんまり話もできない。食事もトイレも全部介助が必要という子どもたちも多かったです。一番つらかったのが、進行性の病気を持ってる子がいるんですね。小学校1年生のときは歩けて話せたのに、2年生になると、クラッチという松葉杖。3年生になると、車椅子に乗らないといけなくなって、4年生になると、もう寝たきり。できてたことがどんどんできなくなっていく。僕はこういう学校は初めての経験だった。だから最初の3カ月ぐらいは何をしていいか分からず、腕を組んでいただけだった。「西郷先生、いつも腕組んでるだけ。何かしなさい」って怒られた。介助もできないし、何をしていいのかもわからない。この子たちにいったいどんな教育をすればいいのかと悩みました。あと内臓に疾患を持ってたりね、もういろんなタイプの子がいた。「20歳まで生きられればいい」というようなことを言っているお母さんもいて、話していると胸が痛かった。3カ月その子たちと関わって、僕は結論を出しました。今日を幸せに、楽しく生きていればいい。「ああ、学校に行くとなんか楽しいな」って思える場所。養護学校をそういう場にしようと思った。3年間そこにいて、勉強させてもらいました。

・僕も蹴られて肋骨を折ったことがある

 それから、後ろ髪を引かれるような感じで普通の中学校に移りました。当時中学校は校内暴力の時代で全国的に荒れていた。僕も生徒にけっとばされて肋骨を折ったことがある。だから学校に行くときには、新しいパンツを履いていた。なんでかっていうと、ほら、ケガして入院したときにさ、汚いパンツを履いているのを看護師さんに見られたらなんかイヤじゃん。生徒が何やるかわかんない、想像がつかない。…そんな感じでした。異動先は羽田空港の近くの学校で、もともとは穏やかな漁師町だったんですよ。そこに羽田空港を作るというので、保証金を渡されて(それと引き換えに)漁業ができなくなった。そこにヤクザが入ってきて賭博をやって、その補償金を吸い上げられた。仕事がなく、お金もない。そんな地域から子どもたちが通学していた学校です。荒れますよね当然。勝手に国がさ、空港を作るからって、わずかばかりの金で漁師さんを飛ばして…。家庭訪問とか行くとお父さんと娘が2人で本当に川べりの、もうバラックみたいな家に住んでてさ。だから、蹴られて肋骨を折ったけど、全然子どもたちを恨まなかった。

開場後のホール。当日は約200人が参加(写真⑥)

・女子生徒は母の目の前で飛び降りた

その学校で生徒の自殺があったんですよ。1985年の5月に3年生のAさんという子が、自宅の都営住宅から飛び降りた。びっくりしました。そしておうちの都合で、このことは秘密にしてくださいという。亡くなったことは先生も知っているし子どもたちも薄々知っているんだけど、話題にできない。だから職員室は何か異常な雰囲気。1人生徒が亡くなったのに、その話をしない。そういう状態でした。とにかく荒れていたから先生たちもどうしよう、どうしようと(いう空気に)なっていた。
 同じ年の11月20日、Bさんのお母さんが夕食の準備をしていたんですね。マンションに住んでいて、台所の向こう側にはリビング、そこでBが遊んでいた。お母さんは夕食の支度をしていて、ひやっとしたんです。何かそこに気配がなくなって、見たらそこにいるはずのBがいない。慌ててベランダの下を見たら落ちていた。Bさんはお母さんの目の前で飛び降りたんです。Bさんは遺書を遺しました。タイマンってわかります?。無理やりケンカさせて、上下をつけさせるっていう不良仲間のしきたりがある。それを明日、無理やりやらされるのが嫌なので、死にますと。最後にお母さんごめんなさいと書いてありました。

・子どもが亡くなるということは

 われわれ教員から見ると、その子は不良といつも一緒にいたから、仲間に見えていた。でもそうじゃなかったんだね。無理やり仲間に入れさせられていた。僕はBさんを直接は知らなかったんだけど、一つ上のお姉ちゃんの理科の授業を受けもっていた。家庭訪問もしていたので、お母さんやお父さんを知っていました。その後、Bが死んで10年もしないうちに工場勤めのお父さんが亡くなって、お母さんも今からもう十二、三年前に亡くなった。僕、お姉ちゃんとお墓参りに行ったんですよ。お線香をあげて帰るときにね、お姉ちゃんが「先生、これで妹はやっと家族と一緒になれました」と言ってお墓を振り返りました。
 子どもが亡くなるということはね、その家族だけじゃなくて、もうみんなが引きずっていく。先ほどの話のように、養護学校のもっと生きたいっていう子が亡くなっちゃうこともある。普通の学校に行っている子ももっと生きたかったのに、自分で命を落とした。そんな(ことを身近に感じた)経験があって、僕の今のマインドセットは作られたのだと思います。生きているうちに楽しく過ごせる、そういう学校にしたいと強く思った。今になって振り返ると、生きてきた環境や勤務校でのいろいろな経験が校長になった時に生きたのだと思います。
(②へつづく)

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次回②は
・相模原事件の犯人を作ったのは誰?
・「あいさつしよう」の貼り紙について
・「僕は足手まとい」と言わせるテスト
などなど、見過ごされがちな社会の違和感にはっと気づかされるお話です。
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プロフィール

《西郷孝彦さんプロフィール》

1954年横浜市生まれ。上智大学理工学部を卒業後、東京都立養護学校をはじめ、都内中学校等で教員、副校長を歴任。2010年、世田谷区立桜丘中学校長に就任。生徒の発達や特性に応じたインクルーシブ教育を取り入れ、段階的に校則を解消。定期テスト等の廃止。個性を伸ばす教育を推進。誰1人切り捨てない、全ての子どもが安心して学べる学校、行きたいと思える学校作りに尽力した。2020年に退職。著書は「校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール」「『過干渉』をやめたら子どもは伸びる」(ともに小学館)など。
「校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール」

「『過干渉』をやめたら子どもは伸びる」


Magazine Crew

三浦順子(あのね文書室)

ライター/インタビュアー。 大分県の片隅でドタバタと4人の子育て中。猫3匹と6人家族で暮らしています。元地方紙記者(見出しとレイアウト担当)。2019年、インタビュー記事を書きはじめました。2022年からは地方紙と専門紙の契約ライターもやってます。

https://www.instagram.com/p/CfcaclBPQdA/



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