その命をどう扱うべきか?
2017年、夏の暑さのピークを迎えた8月9日、私はケンに呼び出された。
ケン:「壁の中から声がするんだけど、ちょっと聞いてみてくれん?」
ケンと私は同郷で、30年以上の付き合いだ。
故郷に帰れば、実家は1kmと離れていない。
そんな2人が紆余曲折を経て、30代後半を迎え、故郷を離れた地方都市で、同種の仕事に取り組んでいる。
自らの力で自らの人生を切り開く決意をし、築70年という噂のボロアパートの1室を借りて住んでいた。
私は一時、ケンの部屋に住まわせてもらっていたが、この時は同じアパートの別室に居を移していた。
【壁の中の命】
ケンの要望を受けた私は、その声がするという壁のある場所に同行した。
ケンが住むボロアパートの2階、廊下を挟んで向かいに部屋が並ぶ中、1区画だけ部屋全体がくり抜かれたような空間がある。
そこは大家さんが不用品の物置として使っていて、古い洗濯機や蛍光灯、いつ使うのかよくわからないような木材などが置かれている。
その空間の中を外に向かって進むとドアがあり、そのドアを開けると非常階段がある。
問題の壁は、そのドアのすぐ横にあった。
ミャァ~
ミャァ~
ミャァ~
確かに、中から声が聞こえて来る。
人間の赤ちゃんと似たそれは、誰もが知っているあの動物を連想させた。
ユウ:「これは猫だろうね。」
ケン:「やっぱりそうだよなあ。」
どうしてそこから声がするのかはよくわからないけれど、その壁の向こうに命がある事を、我々は耳を通じて確信していた。
これが猫であり、しかも赤ちゃんであろうというのは、わざわざ私を連れて来なくとも、ケンにはわかっていただろう。
ケンは「どうしたらいいのか」を私と相談したかったのだ。
ユウ:「これ、人間が入れる隙間なんて無いよね」
ケン:「無いなあ。」
ユウ:「どこかの部屋から天井裏に行けたりするかな?そして穴から吊り上げるとか?」
ケン:「天井裏も人間が入るにはどこか外さんといけんね。」
ユウ:「ならもうこの壁ぶち壊すか穴空けるのが早いよね。そんで後から塞ぐ。」
ケン:「まあそうなるよなあ。」
ユウ:「どうするにせよ大家さんに相談しないといけないね。」
ケンとしては、この結論を出してもらい、大家さんに相談する仲間を増やしたかったのだろう。
言葉には表さなくとも、「この小さな命を救いたい」、というケンの気持ちは、私に伝わってきた。
ケンは私に相談した事で、大家さんに話をする決意ができたらしい。
【大家さん】
壁の中の声を聞いた翌日、私は仕事で忙しかった。
夕闇が迫る時刻になって、ケンにどうなったのか話を聞いた。
ケン:「それがなあ、『そのままにしとけばいい』って言われたんよ」
ユウ:「え?子猫が死んでも構わないって事?」
ケンは、沈んだ顔で、小さく頷いた。
ケン:「壁を壊す事はせんって、ハッキリ言われたわ。」
ユウ:「自分達で勝手に壊したりはできんからなあ。」
ケン:「....うーん....」
ユウ:「中で死体が腐ったりしても大家さんは平気なんかね?」
ケン:「さあなあ。それでも構わんって事でしょう。」
ケンが放ったその言葉には、ガッカリ感だけでなく、多少の怒りと諦観が含まれていた。
命を救いたいのはもちろんだけれど、かと言って、建物を勝手に損壊するのもまた、正しい行いではない。
建造物損壊罪に問われる可能性がある。
ミャァ~
ミャァ~
ミャァ~
例の壁からは、まだ声がする。
おそらく、母親を呼んでいるのだろう。
いつ寝ているのかわからないぐらい、頻繁に鳴いている。
子猫の必死さが窺える。
ケンの部屋はこの壁のある空間のすぐ隣だ。
この子猫が衰弱して朽ち果てるまで、意識を外して無視するのは辛い時間に違いない。
ユウ:「大家さんに会ったら、私からも救助をお願いしてみるわ。」
ケン:「あ~、言ってわかる感じじゃなかったよ。」
ユウ:「そうか。私が交渉してダメだったら、他の手段を考えよう。」
ケン:「そうだなあ~...はぁ...。」
ケンは交渉が得意な人間ではない。
その点、私は自信がある。
ケンは伝えるべき事を伝えていないのではないか。
私が大家さんと交渉してみる価値はある、と思った。
【管理人さん】
その日のうちには、大家さんとは会えなかった。
翌日の昼頃、食事に向かう途中で、偶然、管理人さんと出くわした。
この管理人さんは、大家さんの会社の社員だったりする。
大家さんは不動産会社の社長で、我々の住むアパートはその持ち物件だ。
その管理人さんが、私に声をかけてきた。
管理:「ケンから聞いた?壁の中に猫が居るらしいが。」
ユウ:「あ、管理人さんも聞いてました?どう思います?」
管理:「助けたらええがな。壁なんて穴空けても後から塞げばええんじゃけえ。」
ユウ:「ですよねえ。あの壁って厚かったり高価だったりします?」
管理:「そんな立派なもんじゃねえよ。大したもんじゃねえ。」
ユウ:「じゃあ、壊そうと思えば簡単に壊せるんですね。」
管理:「うん。それが大家さんは放っとけっちゅうんじゃ。」
ユウ:「なんでですかねえ?」
管理:「さあ...なんかわからんあの人は。昔からあんなんじゃけえ。」
ユウ:「修理が面倒だとか?」
管理:「いや~なあ...動物の命なんかどうでもええ思うちょるんじゃろ。」
ユウ:「そうだとしても、木造の建物の中で死骸が腐ったらヤバいんじゃないですか?」
管理:「そらあ、良うないわなあ。それでもありゃ言う事聞かんけん。」
ユウ:「とりあえず、私からも言ってみます。」
管理:「うーん、言ってみて。まあ、自分が勝手な事はできんけん。」
ユウ:「そうですよねえ。わかりました。」
管理人さんも、あの小さな命を救うべきだと考えているらしい。
大家さんさえ説得できれば、後はなんとかなるともわかった。
【交渉】
次の日。
大家さんと会うタイミングがあったので、話をしてみた。
ユウ:「こんにちは。アパートの壁の中に猫の子供が居るみたいなんですけど。」
大家:「あ~、その話ねえ。そんなに気になりますかねえ?」
ユウ:「生き物ですし。壁から出してあげたいのですが。」
大家:「猫でしょ?猫はいくらでも入り込んで来るからねえ。」
ユウ:「屋根裏に入り込む隙間があったんでしょうね。そこで出産したんだと思います。」
大家:「その隙間探して塞いでも、キリがないでしょう。」
ユウ:「隙間を無くせば入っては来れなくなりますよ。それと赤ちゃんを出してあげましょう。」
大家:「上からは無理だから、壁に穴を空けるか壁を取り外すしかないからねえ。そこまでせんでもいいでしょう。」
ユウ:「穴を空けるのは簡単なようですが。」
大家:「猫1匹に穴空けんでもいいでしょう。」
ユウ:「壁の中で死んでもいいんですか?死体が腐敗するのはかなり不衛生で、悪臭が問題になるかもしれませんよ。」
大家:「まあねえ。そうなったらそうなったで仕方がないでしょう。」
ユウ:「え?不衛生なのに仕方がないって、住民が困りますよ。壁空けて猫を取り出すだけで解決するのに?」
大家:「それは私が決める事です。この話はもういいでしょう。」
なるほど。
ケンと管理人さんがこの人に対して静かにムカついている理由がよくわかった。
自分の感覚が全ての、頑固な老人なんだな、と私は感じた。
【ケン】
その後、ケンに会い、交渉が失敗した事を伝えると...
ケン:「ユウでもダメだったか。」
ユウ:「管理人さんが話しても聞かんかったらしい。」
ケン:「それは俺も管理人さんから聞いたわ。」
ユウ:「罪に問われたり賠償せないかんくなるのを覚悟してぶっ壊して助けるか、大家さんの意向通りこのまま見捨てて腐敗してから文句言うか、どちらかしかないね。」
ケン:「....うーん....。」
ケンは悩んでいる様子だった。
彼の中の正義感が、命を助けるのは正義だと言っているのだと思う。
しかし、勝手に壁を壊すのは不正義だ。
スッキリする解決の形が閉ざされてしまった。
ミャァ...
壁から鳴き声がした。
しかし、昨日と違い、その数が減り、声が小さくなり、力が弱くなっているのが感じられた。
その翌日、お盆の連休が目前に迫り、私は忙しかった。
日中の気温が35℃を超えるのが当たり前のこの夏、子猫はあの状況下でどれぐらい生き延びられるものなのだろうか。
クソ暑い昼過ぎ、作業の休憩時間に、ケンと会った。
ケンはまだ悩んでいた。
ミャァ...
....
....
ミャァ...
....
....
壁の中の声は、随分か細くなっていた。
生きているのはわかるけれど、その命の終わりが近い事もわかる。
ケン:「なあ、どうする事もできんのかなあ?」
ユウ:「できん事はないさ。力ずくでも大家さんにYESと言わせるか、勝手に壁を壊して助けるか、諦めて命の終わりを待つか、それを選べるよ。」
ケン:「....。」
ユウ:「ケンが、自分の心の中にある最も正しい選択をすればいい。一生の中で、後悔しない選択を。」
ケン:「...ぅうーん...。」
ケンはまだ悩んでいるようだった。
私がこういう言い方をしている時点で、私が自らそれらの決断をして、実行するわけではない、というのも伝わっている。
私は、大家さんの意向に反して子猫の命を救う事が、正しい行いだとは考えていない。
助けた命がどう転ぶか、それに責任を持てないからだ。
私は仕事に戻った。
次にこのアパートに戻ったのは、日が沈んだ時刻だった。
【選択】
仕事が一段落した私は、子猫が居る壁の場所に向かった。
すると...
そこには、ケンと管理人さんが居た。
そして...
今まさに、壁に穴を穿とうとしていた。
ケン:「おお、ユウか。」
ユウ:「お、大家さんの許可取れたん?」
ケン:「フフッ...。」
そのケンの微笑は、NOを意味していた。
彼は、何よりもこの目の前の命を救う事を最優先する、という決断をしたのだった。
穴を空けるための器具は、管理人さんが貸してくれたようだ。
壁に耳を当て...
管理:「もうちょい左じゃねえか?柱のすぐ近く。」
と、ケンに指示を出す。
ケンは黙ってそれに応え、小型電動ドリルを壁に当てた。
そして、自分の手が入るだけの円をドリルで描き、最後は自らの手で壁に穴を作った。
ミャァ...
壁の向こう側に居た子猫の声は、それに反応した。
ケンはすぐに、穴に手を入れてその場所を探る。
すると...
目が開くか開かないか、ぐらいの子猫が、ケンの手に包まれて現れた。
管理:「お~、やったな。小せぇなあ。」
ユウ:「まだ目が完全には開いとらんですね。」
ケン:「だいぶ弱っとるっぽいな。」
ケンはすぐさま、用意していたタオルで子猫を包む。
そして、私の部屋に行き、脱脂綿に水を含ませて子猫に与えた。
ひとしきり水を吸った後、子猫の身体を水で洗い、その身体を拭いて、別のタオルでまた包んだ。
ミャァ...
ミャァ...
声を発するぐらいの元気はあるようだ。
助けたのはいいけれど、この子猫をどうするのか、という、次の問題が降りかかってきた。
ケン:「ペット禁止だしなあ。」
ユウ:「例えOKでも、私は色々と無理だね。」
ケン:「俺も経済的に厳しいし、仕事上ノミとか気にせないかんからなあ。」
ユウ:「親猫に返したいけど上手く行かんって話を聞くね。」
ケン:「人間の臭いが付いたら育児放棄する事があるらしいね。」
ユウ:「ここ数日、このアパートと周辺を探し回っとるみたいで可哀想よな。」
ケン:「そうなんよ。鳴き声と足音がよく聞こえてくるわ。」
ユウ:「その辺置いといたら回収してくれたりせんかな?」
ケン:「いやー...どうかな...カラスに持って行かれるかもしれん。」
ユウ:「そうなったら助けた意味無いもんな。」
そんな話をしている最中、アパートのすぐ外で、何やら騒ぎが起きていた。
パトカーのサイレンの音が聞こえ、アパート付近でその音が消えた。
【警察】
非常階段を下りると、警察官が6名、アパートの住民と話しをしていた。
どうやら、住民間でトラブルがあり、警察に通報されたらしい。
すぐに解決したようで、警察官は切り上げようとしていた。
ユウ:「ちょうどいいから、警察に子猫について聞いてみたらどうだい?」
ケン:「遺失物扱いになるんかな?一定期間預かって保健所送りじゃないかな。」
ユウ:「その辺も含めて直接聞いてみるチャンスだと思うよ。」
警察官がこちらの視線に気が付いた。
パトカーとその住民宅の間に我々は居た。
ケン:「あのー、ちょっとすいません。聞きたい事があるんですけど、いいですか?」
警A:「はい、なんでしょう?」
ユウ:「先ほど、この付近で子猫を拾った(という事にした)のですが、警察の方で預かっていただく事はできないでしょうか?」
警A:「あー、警察(署)での預りはできないですねー。」
ケン:「やっぱりそうですか。遺失物として扱われますか?」
警A:「動物愛護法がありますので、そちらに基づいた措置になりますね。」
ケン:「一定期間預かった後、保健所に送られる形ですか?」
警A:「そうなりますね。我々が預かるよりも、そちらの方で、里親を探されるのがよろしいかと思います。」
※↑この辺りの取り決めについては、このサイトが参考になりそうです(古い&宮崎県警のものである事をご留意ください)。
ケン:「職務中にこういう事を言うのはいかんのかもしれませんが、どなたか個人で預かってもらうというのはできませんか?」
警A:「うーん、うちは無理ですね。」
と言いつつ、警官Aは、他の警官に向けて訊いた。
警A:「B君の所はどうだったかな?」
警B:「うちも無理ですね。」
警A:「ペット可じゃなかったっけ?」
警B:「以前住んでた所はそうでしたけど、引っ越したんです。」
....
ここで間ができ、一同が静かになった。
ユウ:「この猫をこの地域の警察のマスコットとして扱う目的で、警察署で飼育というのはできませんか?なんかそういうの流行ってるみたいですし。1日署長とかで見ますよね。」
警官:「....。」
ケン:「お預けしている間に、里親が見付かる確率はどのぐらいですか?」
警A:「我々が積極的に里親探しはしませんから、そうした専門の方を探して依頼するか、ご自身で探された方が良いでしょう。」
ケン:「そうですか...。」
我々はこの地域の住民の方々との交流が乏しく、引き取ってくれそうな人物に心当たりは無かった。
里親探しをしてくれる慈善団体をネット検索して探してみるか...などと考えていたら、ケンの部屋の隣に住む、アパートの住民が、騒ぎを聞きつけてやって来た。
そして我々と、子猫を見てこう言った。
住民:「あそこの銭湯の主人に聞いてみちゃるわ。確か猫の保護とかしとったはず。」
普段交流があまりなかった住民だったけれど、この時は力を貸してくれた。
この申し出を受け、ケンは住民の方に、「銭湯の主人」に連絡を取ってもらった。
警察官は、「では、我々はこれで。」と、このタイミングでパトカーに乗り、去って行った。
【その後】
その日の夜のうちには、例の銭湯の主人とは連絡が付かなかったらしい。
しかしその翌日、電話が繋がったその人は、子猫の受け入れを承諾してくれたそうだ。
ケンは、引き取り先を紹介してくれたアパートの住民と共に、子猫をその主人の許へ連れて行ったらしい。
多忙だった私は同行できず、後からこれらの話を聞いた。
管理人さんから、この猫のその後の話は時々聞いた。
銭湯の主人に保護され、元気に育っているとの事。
救出された直後は、暑い中3日以上も放置されていたため弱っていたみたいだけれど、その後に受けた検査では特に異常も無く、健康に過ごせているらしい。
ケンは、子猫を送り届けた翌日、私にこう言った。
ケン:「ユウ、ありがとう。あの時ああ言ってくれたから、後悔しない選択ができたわ。」
このお話は、ここで終わっておくのが、綺麗で良いだろう。
筆者の自分としても、ただの作品としてまとめたいなら、そうするところである。
しかし、命続く限り、現実もまた続く。
あれから5年が過ぎました。
ケンは、この時の仕事は天職ではなかったようで、別の仕事に転職した結果、体調を崩して故郷に帰り、そこで新たな職に就きました。
子猫を引き取ってくれた銭湯の主人は、昨年亡くなりました...。
保護されていた猫たちがどうなったのかは、私にはわかりません。
管理人さんも知らないようでした。
銭湯の建物は、主人が亡くなられた後もしばらく残っていました。
野良猫にも食べ物を与えていたようで、建物横に置かれている、空の皿の周りに猫が寄って来ている光景を何度か見ました。
もう、そこに食べ物を入れてくれる人は居ないんだよ...。
その建物も、夏を前に取り壊されました。
2019年に、アパートでノミ騒ぎがありました。
この頃から今に至るまで、この周辺の建物には、野良猫がよく出入りしています。
その猫が原因なのかはわかりませんが、アパートの住民がノミに刺されまくるという事態が起きました。
ケンも、管理人さんも、大家さんも刺されました。
また、私が干している布団や枕に、野良猫が小便をかけた事が何度かありました。
臭いが酷いのですぐわかりますね。
その寝具は、丸洗いして消毒しなければなりませんでした。
猫は、我々と人間と違う、`異種族'です。
我々の生活に害をもたらす事もありえます。
「かわいいから」という理由だけで、その命を何としてでも救わなければならない、というのは正しくないと私は考えています。
5年前の大家さんが判断した、「放っていおいていい。死んでも構わない。」というのが、間違っているとは私は思いません。
人間の生活に異種族を補助する程の余裕がなければ、人間である自分達の生活・行動が最優先されるべきだと理解しています。
地上の支配者である人間たる我々は、異種族を殺し、食べ、繁栄しています。
猫だから助ける、蚊だから殺す、その命の差は何でしょう?
ちなみに...
本記事に書いた子猫の救出と、ノミ騒ぎの間の時期に、屋根裏に子猫が産み落とされた事がありました。
この時は、大家さんに連絡すると、1日経たないうちに、屋根裏のパネルを外し、大家さん自ら子猫を救出してくれました。
その猫の里親も、大家さんが見付けました。
反省したとか心変わりしたとかそんなんじゃなく、大家さんはその時その状況で判断しただけだったのです。
「その命をどう扱うべきか?」
あなたの中に、答えはありますか?