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森が呼んでいる(4)失敗上手は練習上手

星の数だけ失敗してきた。

友達との付き合い方、学業、恋愛、言葉の選び方から、ファッション、髪型、仕事の仕方、旅先でのドジ、お金の使い方などなど、関わるものすべてにおいて失敗をしてきた気がする。例を挙げたらキリがないし、その中の一つ一つを思い出そうとしただけで、穴があったら入り込んでそのまま地球の終わりが来るまで冬眠していたいほど恥ずかしくなるし、時々フラッシュバックで失敗の思い出が頭の中に蘇るたび、ブラックホールみたいな巨大で真っ暗闇の自己嫌悪という魔物に吸い込まれてしまいそうになる。

人生には失敗はつきものだというけれど、自分の場合、普通の人の数十倍は失敗を経験してきた気がする。あまりに深く考えずにすぐに行動に移してしまう性分が祟っている。どこまで干支が性格に影響しているのかは甚だ疑問だけど、いのしし年生まれの呪いだと干支のせいにして責任転嫁したくなるほど「猪突猛進」というのは自分を最も的確に表す言葉だと思う。さらに、高校の友達に「学習能力あまりないよね」と言われたこともあるので(10年以上前だけど)、おそらくその通りなのだと思う。一度した失敗を何度も繰り返して、ボロボロになったところでようやく気付くというとても効率の悪い人間のように思える。

失うものがないほどの底辺の人生を歩んできたのも、失敗家(今勝手に作った言葉)になった一つの原因なのだが、その底辺の人生について書くと長くなるので今回は割愛するとして、35歳になった今、失敗家としての人生が逆に強みとなった気がする。失敗を繰り返したわたしの心はズタボロの脆いものになるどころか、ちょっとやそっとの困難じゃ全然へこたれない、かさぶただらけでつぎはぎだらけだけど強くて回復が早い心となった。今でも失敗すると落ち込む。自分はなんてバカなんだと思う。でもそれは一瞬で、「失敗しなかったらこんな考えには至らなかっただろうから、今のうちに失敗しておいて本当に良かった。自分はなんて幸運なんだ」と思うようになった。おめでたい考え方の、脳みそがお花畑みたいなポジティブ野郎と思われてしまうかもしれないが、「失敗は成功のもと」と幼い頃から繰り返し耳にしてきた言葉は、数えきれないほどのかっこ悪い経験を通してきたからこそ、まさに真理だと断言できる。

もし今、10代や20代の自分に会いに行けるとしたら、失敗をしても大丈夫だし、悩むことはないと伝えてあげたい。失敗したと嘆き、いつまでも引きずっているのは大抵は他でもない自分自身で、他の人はそんなことはすぐに忘れて次から次に押し寄せてくる現実に向かって生きている。誰かに変な印象を与えてしまったとしてもいつかは挽回可能だし、もしそれでダメになってしまうのならそれまでの縁だったということだ。誰かの失敗を裏で笑う人や、いつまでも引きずって責めてくる人には耳を貸さなくて良い。そんな人たちはあなたがどんなことをしようと、永遠にあなたの良さを認めず、その人たちが欠点だと思う部分を取り上げては延々と揶揄したり叱責してくるのだから(しかも自分のことは棚に上げて)。そんな意地悪な人たちのことは無視して生きて良い。そんな意地悪な人たちは自分の周りから遠ざけるくらいで丁度よい。

それに、失敗をしたところでチャンスはまたやってくる。そのチャンスこそが実は本命だったのだと思えば、そのチャンスに向けて今できることを示してくれた失敗には、むしろ感謝の念を抱くべきだと思える。そのチャンスがダメでも、必ず次はある。そしてそれがダメでも、そのまた次も絶対にやって来る。人生は長いし、チャンスは常にそこら中に転がっている。見えなくても確実にあなたに拾われるのを待っている。けれど、至らなかった自分を嘆いて自己憐憫に浸っていると、その間にそれは過ぎ去ってしまう。だから嘆く時間は少なくて良い。自分をかわいそうだと思う時間は少なければ少ないほど良い。むしろ失敗を真摯に受け止め、こんな思いを二度としないぞと心に決めて次へ向かって歩みだした方が良い。悩んだり自分を責める時間は一瞬で良い。それは過ちを認めないことではない。落ち込んでいるショック状態から這い出して、もう二度と繰り返すことのないように自分を訓練していくことは、過ちを認め、さらにその先へ行こうとする、「成長」である。長い寿命を持ち、他者と関わりを持ちながら社会を構成していく我々人間にとって必要な姿勢だと思う。

「失敗」がもたらしてくれる「成功」の分かりやすい例は語学だ。語学は時間や労力を費やせば費やすほど伸びるものだとわたしは思っているけれど、ただ聞いたり、読んだりするだけでは成長はそこまで劇的には起こらない。自分のペースでゆっくり成長することは大事だけれど、10年や20年とあまりに長く同じレベルでいると、フラストレーションが溜まって精神的にも良くない。大抵は1年くらいで一気に伸びるので、1年を目安にある程度の習得を目指すくらいが良いと思う。その、「適切な」速さで伸びるためには、できるだけ「書いて」「発言して」、ミスを直してもらうことが必要だと思われる。現在の自分の能力の限界を危険に晒す頻度が少なければ少ないほど語学は成長率が低くなる。失敗しても良い、誰かに笑われても良い。恥をかけばかくほど、それは自分の糧になる。そういう姿勢でいると語学は一気に伸びる。

例えば23歳の春、東京で、スウェーデンから来た料理人と英語で話す機会があった。「あなた料理人なんだっけ?」と言いたかったのだが、英語がそこまで上手でなかったわたしは、"So I heard you are a cock."と言ってしまったのだ。彼は大笑い。a cock(ア コック)は男性器のことで、正解はa cook(ア クック)なのだが、日本だと和製英語で「コックさん」と言ったりするゆえに、頭が和製英語モードになっていた。なんとも恥ずかしい間違いをしたものだ。

またこんな経験もある。27歳の時、パリ大学の新学期で自己紹介をする機会があった。ある程度のフランス語ならできると自負していわたしは、研究の内容や趣味について簡単に説明した後、「ライブに行ったり映画を観に行ったり、夜飲んだりするのが好きなので、興味のある方は一緒に出かけましょう」と言ったのだが、聞いていたフランス人たちは目の前でクスクスしていた。クラスが終わった後、クスクスしていた人たちに理由を聞いてみたら、「Minoriのフランス語はとても流暢で、発音も良いし文法的には何も間違っていないのだけど、明るくて楽しそうな子という雰囲気が強すぎて、" si vous vous intéressez, on va sortir ensimble "! のところがもはや違う意味(sortir ensembleは英語でいうところのgo out together「デートする/付き合う」みたいな意味にもなる。「一緒に出かける」という意味もあるけど、文脈や言い方のトーンによる)に聞こえちゃって、だからみんな、「おーいいぞいいぞ!!デートしようぜ!!」とからかって笑ってたんだよ!」と教えてくれたのだった。大人数の前で恥をかき、顔から火が出るほど恥ずかしかったけれど、今となっては恥をかいて良かったと思っている。こういう恥をかくことで覚えられる表現やニュアンスが銀河の数ほどあるからだ(他にも比較的静かで真面目な雰囲気が漂う授業中に、" ça dépend des circonstances「状況による」"と言いたかったのに、" ça dépend des circoncisions「割礼による」"と言ってしまい、クラス中を笑いの渦に落とし込んだこともある。超恥ずかしかった…)。語学の上達に終わりはない。母語の日本語だって、こんなに難しいんだもの。人生一生練習。練習から逃げることは挑戦をやめること。挑戦をしないことは人生の中で得られる楽しさや豊かさを手放すこと。

人生にチャンスはたくさん転がっているけれど、人生はそんなに簡単じゃない。やりたいことをやり遂げたり、こうありたいと思う自分でいることは、誰かを愛し、誰かに愛されることと同じくらい至難の業だったりする。だからこそ練習が必要だし、その練習は語学でいうところの「読むこと」「聞くこと」のような受け身のものではなく、常に自分の限界を知り、それを広げていくようなものが良いとわたしは思う。日本は便利な国だ。コンビニで何でも買える。ツイッターでニュースが読める。友達を作れたりもする。でも自分の人生を自分の望むようにデザインすることは、誰も教えてくれない。結局のところ、自分の力で手探りで見つけていくしかない。語学も、ペラペラになりたいと思ったところで、一日や二日でペラペラになれるものじゃない。1年、5年、10年というコミットメントが必要だし、その中には当然、挑戦や失敗、フラストレーションや赤恥も含まれる。そんなことは当たり前のことなのだが、極端に便利な国に生まれ育つと、失敗をしなくてもある程度のことが得られるので、結果的に失敗をなるべく避けてしまう人間が大量生産されている気がする。ツイッターを見ていると、そういう考え方、できるだけ簡単に生きたい、と思っている人が想像以上に多いと気づかされる。コンビニでお菓子や雑誌を買うように。

誰かが新しいことに挑戦して、失敗した時に、周囲の人々が、それをけなしたり、批判したり、人間性を否定するようなことを言わないように気をつけたら、失敗をおそれて挑戦をしない人が減るのではないかと思う。誰かが失敗することを、社会がほほ笑みながら見守り、次には成功に繋がる可能性があることを、皆で認識して、背中を押し合う。失敗したことを責めるより、挑戦したことを称賛する社会の方が健全だし、結果的には人類の進歩にも貢献すると思う。改善点を洗い出し、そこから次の方法を模索することも忘れてはならない。厳しく聞こえるかもしれないけれど、自転車に乗れるようになったり、泳げるようになったりすることと根本的には同じことだと思う。最初は失敗するのが当たり前。徐々にコツをつかんで、周囲からの応援を受け、安心して挑戦を続けているうちに上達して、習得する。時間がかかっても良い。でも、失敗から常に学び、やり方を変えて自分のやり方を追求することが大事。失敗上手は練習上手。練習上手になることは上達への鍵だ。

わたしがソーシャルメディアで、失敗を恐れずに自分をさらけ出しても良いんだ、と覚醒に至ったのは2016年の春だった。当時ヘルシンキで挫折や失敗を繰り返し、人生に行き詰っていたわたしは「巡礼へ行きます」とnoteでサポートを募った。

11年来の夢だった巡礼を支援してくださった人たちのお蔭で、一生忘れることのない、サンティアゴ巡礼の道を歩くことができた。雪の降るピレネー山脈を越え、青空の下で仲間たちと大声で歌いながら荒野を歩き、炎天下の中で苦しむ人を助け、自分が誰かのためになる存在になれることを宇宙に感謝し、自分を生かし続ける海の幸や山の幸、人々の優しさに喜びを感じ、多くの人に出会い、たくさんのことを考えた。

noteでサポートを募った時は、期待や楽しみもあったけれど心は不安でいっぱいだった。もし、巡礼の道が思っていたよりも厳しくて、歩ききれなかったらどうしよう。ちゃんとした歩きができず、批判されたらどうしよう。わたしの投降で誰かの心を傷つけたらどうしよう。そんな考えがぐるぐると頭の中を巡っていた。

でも、みんな本当に優しかった。怒る人なんて誰もいなかったし、もし失敗したところで責める態勢の人なんて一人もいなかったと思う。全員が、失敗することも前提で、わたしの夢を支援してくれた。挑戦を応援してくれた。達成をまるで自分のことのように喜んでくれた。そして、わたしという人間に、自身の夢や希望を託してくれた人もいた。「信じる宗教は違うけれど、幸せを望む気持ちは同じであり、そして誰もが幸せを受けられる道が必ずくるという道があるように」という願いを託してくれた人、わたしの書く小説を好きなので巡礼の小説をぜひ書いてくださいと言ってくれた人、何かに熱くなるということを忘れてしまったので、わたしの情熱を応援したいと言ってくれた人、足が悪く歩くことができないので、その方の分までわたしに歩いて欲しいと言ってくれた人、わたしのことをただひたすらに応援し、健康を気遣ってくれる人がいた。巡礼で得たものは、カミーノの道の上だけではなく、noteの中にもあった。ツイッターの中にもあった。自分のしたいこととに挑戦すること。それをネットで公表したとしても、失敗を批判をせず、見守ってくれる人が実はたくさんいるということ。わたしたちがお互いの夢や挑戦を応援し、失敗して落ち込んでいる人には大丈夫だよと言い聞かせ、周囲の人が挑戦する人の背を押すような対応をすることができたら、世界はもっと素晴らしい場所になると思う。

「失敗」は決してネガティブなものではなくて、成功への階段を上るための道具、または脚の筋力を得る機会を示してくれるものなのだと思う。だからわたしたちの視点によっては「失敗」はむしろギフトだ。そんなことを教えてくれる、kikiさんの文章を紹介したい。

今でも過去の失敗を再現した悪夢をよく見るし、様々なことに挑戦し続けているので失敗を繰り返している。意地悪な人に出会うこともある。でも自分がそんな意地悪な人だったこともあるので、その人の気持ちや状況はとてもよく分かる。世の中、色んな人がいて良い。でも自分はできるだけ自分や他者の失敗をネガティブなものだと捉えず、「あぁ、階段を上るために筋トレしているんだなー明日はもっと強くなるぞ」という目で暖かく見守れたらと思っている。雨降って地固まる。雨こそ天の恵み。練習しながら人生を重ねていこうと思う。

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「森が呼んでいる」シリーズ


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