おうち時間はつまらなくていい
家に楽器も本もない家庭の子どもは、いま、何をしているのだろうか。
テレビのワイドショーでは、芸能人やその家族が、毎日のように楽器やら歌やらを演奏して、楽しそうなおうち時間を見せてくれる。
けれども、それは家に楽器があったり、親が芸能人だったりする場合である。家に楽器も本もなければ、スマホゲームやYoutubeを見て、時間を潰すしかない。
ある意味で、「おうち時間を楽しく」の質は、そのおうちの文化資本に左右されると思うのだよな。
もちろん、ひとの幸せや楽しさが、「心の持ちよう」で部分的に何とかなることは、私も知っている。
でも、その「心の持ちよう」なるものは、自分がどれくらい文化資本を持っているのかによって、部分的には左右されるんじゃないかな。
たとえば、悲しいことがあって気晴らしをしたいとき、ギターを弾くなり、好きな音楽を聴くなり、いろいろなやり方があるとは思うのだけれど、そもそも、そういう文化を楽しむことができるかという、文化への慣れ親しみのようなものがないと、気晴らしすらもうまくいかない、という。
いや、公園を散歩すればいい気晴らしになるじゃないか、あるいは、スポーツを楽しめばいいじゃないか、と思うかもしれないけれど、今、この自粛ムードの中においては、それが難しいのだと思う。
身体を使ったあれこれによって気晴らしをすることは、身体を制限するこの状況においては、難しい。
そうだとすれば、ひとは、自らの気晴らしを文化に求めなくてはならなくなるけれども、そもそもある程度の文化資本の蓄積がないと、文化を楽しむこともまた、難しい、という。
この自粛ムードで、「おうち時間を楽しく」という言葉を芸能人たちが使うのはよく分かるし、そこにポジティブな含みしかないのもよく分かるのだけれど、その一方で私は、この言葉に少し危うさのようなものを感じてしまう。
そりゃ、あんたたちは、家に楽器があるし、愉快な家族がいるから良いだろうよ、という。
(ちなみに文化資本という言葉には、楽器や本などの形のあるものだけではなくて、楽器が弾けたり、踊れたり、文章がかけたり、という能力も含む広い意味で使っている。生活に直接的には必要のないモノやスキルの総体を指していると思ってほしい。)
(ただ、このように書くと、文化も生活に必要じゃないかと言われるかもしれないが、衣食住と比べると、やっぱり重要度がちょっと違うと、私は思う。)
なぜ急にこういうことを書いておこうと思ったかと言うと、
劇作家の平田オリザさんが炎上している一件を見ていて、
「文化資本格差」という言葉が、私の頭を連日よぎっているからである。
(ちなみに、私は平田オリザさんが大好きである。新作や新刊が出たら、大体観たり読んだりしている。そしてこの記事の内容に、わたしは概ね共感している。だから、このnoteは、記事の内容それ自体にはあまり触れないつもりだが、ある意味で平田さんに肩入れしているかもしれないということを、念のためここで書いておく。)
平田さんに対して向けられている批判の多くは、「製造業も苦しいのに、演劇だけを特別視するなど、選民思想ではないか」という趣旨のものが多いように見受けられる。
(そのほとんどが、悪意のある切り取られ方をしている二次ソースしかあたっていないような批判なので、批判として不誠実だと私は感じるその一方で、)「選民思想」という言葉が批判のなかで登場する点に、わたしは興味がある。
私は、この、「選民思想」という言葉を持ち出さざるを得なくなっているような批判に、この社会の文化資本の格差(あるいは分断)が垣間見える気がするのだよな。
たとえば、もし仮に、製造業の重鎮の人が、「演劇は景気が回復したら稽古して作ればよいが、製造業で工場を畳んでしまえば、もう元には戻せなくなる」という主張をしたときに、演劇人の側から「選民思想」ではないか、という言葉が出てくるとは、ちょっと考えづらいと思う。ここには、言葉の使い方についての非対称性がある。
(ここで私は演劇人に良いヤツが多いということを言いたいのではなくて、そういうときはおそらく、「非文化的な発想」「反知性主義」というような言葉が使われると思う。(私がそういうふうに思っているわけではないし、そういう言葉を使いたいわけではないので、注意してほしい。とにかく、「選民思想」という言葉はあまり使われないだろうということだ。))
何が言いたいのかと言うと、この「選民思想」という言葉の背景には、演劇を享受できる人間は、選ばれたものにすぎないのだ、という考え方が潜在しているのではないか、ということだ。
よりシンプルにいえば、批判者の目には、「文化資本の高い”高尚な”現代芸術を作っているエリートが、現実味のないことを言っている」くらいに映っているのではないかと、私は思う。
(念のため言っておくが、私は、文化資本が低い人を軽蔑する意図も全くない。それは、経済資本の大小が、その人の価値を決めないということに似ている。文化資本の大小も、その人の価値とは関係がない。そもそも人に価値が高いとか低いとかない。)
もちろん、平田さんの主張に賛否があるのは確かだと思う(そもそも賛否の分かれない主張は、主張するに値しないと私は思う)。
ただ、それが炎上するかどうかは、きっと主張された内容とは別の問題で、今、こうして炎上しているのは、その内容がどうということ以上に、この社会の文化資本の格差と、そこに対するルサンチマン的な憤りがその背景にあるような気が、私にはしている。
(繰り返しになるが、)私は、文化資本を持たぬ人たちが悪いと言いたいわけでは決してなくて、ここで言いたいのは、そういう文化資本の大小による分断がこの社会にはあって、それが結構深刻なのではないかということである。
「選民思想」という言葉を、つい出してしまうような批判の背景には、演劇をはじめとする芸術が選ばれた者だけが楽しめる営みであるとする、文化資本が幅広く行き渡っていない社会の構造と、それによって生み出されているルサンチマンが見えてくるような、そんな気が。
(あまり関係のない話かもしれないが、私は大勢がスマホゲームに興じている通勤電車が怖い。それが文化資本と関係したことなのか分からないけれど、私は怖いと思う。)
「おうち時間を楽しく」の話に戻そう。
「おうち時間を楽しく」タグをつけてTwitterに投稿するためには、それなりの文化資本が必要だ。たとえば、綺麗な料理の写真をアップするためにはある程度料理の腕(文化資本)が必要で、だからこそアップする甲斐があるのだけれど、カップラーメンの写真をアップするのは、どんなにカップラーメンが美味しくてもちょっと気が引ける。
つまり、「おうち時間を楽しく」が、文化資本の誇示合戦の戦場に若干なっているような気がする、ということだ。そうだとしたら、このタグは、間接的に、ルサンチマンを生み出すことにもつながっているよなあ、と思う。
(つまらない誤解を招きたくないので弁解しておくが、私はカップラーメンも大好きである。ほとんど毎日食べている。安いし早いし美味しい。言いたいのは、カップラーメンの写真はアップしたくないが、ごく稀に作る料理の写真はアップしたくなる、という話である。それは、文化的な生活を営んだことによる、ちょっとした優越感から来るものだと思う。カップラーメンを批判したいわけではないので、誤解なきよう。)
だから、わたしは、「おうち時間を楽しく」に溢れたTwitterを、しばらくやめることにしました。
「おうち時間を楽しく」と言ってしまった途端に、楽しかったおうち時間は、文化資本を示すための道具になってしまう気がしたからです。
もしかしたら、ちょっと考えすぎかもしれません。
おうち時間を素直に楽しめない、ひねくれ者のつらいところです。
今月は、つまらなくてもよい、つまらない生活を営んでいる自分を許せるような、そういうおうち時間を探したいと思います。