灰色の夏休みを過ごすとき
こういうとき、Googleは容赦ないと思う。
いつから青かった夏休みが、灰色になったのだろう。
Googleフォトには、1年前の写真や5年前、10年前の写真を自動でサジェストしてくる機能があって、私の青色だった夏休みをフラッシュバックさせてくる。(「あなたの5年前は、こんな1日でした!」という具合である。)
画面の中の青かった夏休みが、私の現実の夏休みを、かえって灰色にさせていくように思われる。「こんなに夏休みって、昔、青かったっけ?」
「おばけばかり」という名前の短編演劇祭を開いたのは、コロナ禍の2020年の年末のことだった。
コロナ禍でも、そうでなくても、生きている限り、「おばけ」と手を切ることは難しい。
デリダのように、ありえたはずの過去を「おばけ」として捉えるなら、今の現実の中の「おばけ」が解消されることは、永遠にないのかもしれない。むしろ、「おばけ」たちが彷徨っているからこそ、現実は現実のナマとして、わたしたちに現れてくる。
もし、わたしたちが「おばけ」について考えることもなかったのだとしたら、わたしたちは「今の現実」について考えることもできなかっただろう。「今の現実」は、「おばけ」に取り憑かれているからこそ、「今の現実」として私たちに現れてくる。
いま、ウサギ=アヒル図がウサギにしか見えなかったとき、もはやこの図を「今、ウサギだ!」と言うことはなかっただろう、というのはウィトゲンシュタインのおなじみの一文である。
「今、現実だ!」と私たちが言うことができる限り、わたしたちの現実には、すでに「おばけ」が取り憑いている。「おばけ」が見えていないときの「今の現実」の現れようのなさは、「アヒル」が見えていないときに「今の見えとしてのウサギ」が見えてこようのなさと同じである。
現実はいつだって現実としてわたしたちの目に映るわけではない。もしそうだとしたら、それは、わたしたちが車の運転をしているとき、いつもハンドルのことを考えていると言うことくらい奇妙だ。むしろ、私たちは「現実」に棲まうのであって、「現実」をわざわざ意識して、モノモノしく取り扱うのではない。
毎朝起きるたびに「現実」の現実性について考えていたら、疲れちゃうし。
(だから、「右足を出して左足出すと歩ける」と言うのはけっこう怪しくて、むしろ、歩けるからこそ、右足を出して左足を出すなんて超人技ができるのだ。私たちは歩みを止めることができない。)
そういう意味で、わたしたちに取り憑いているのは、「おばけ」だけではなく、むしろ、「今の現実」と言うこともできよう。「今の現実」の、「今の現実」性に、うまく棲まうことができないからこそ、夏休みはグレースケールのまま続いてしまう。
「今」の「今」性を、無限の「未来」へと解消させてくれるという意味では、資本主義の精神は、いい薬なのかもしれない。決して訪れることのない未来への耐えざる希望は、「今の現実」も「おばけ」も成仏させてくれる。今日もビジネス本を買い続け、自己を実現させていこう!ありがとう、Googleジャパン!今日も楽しくYoutubeで副業の動画を見よう!
(・・・ハッ!そういう絶えざる過去の忘却がうまくできないからこそ、noteを書いたり、演劇を続けたりしたり、会話の研究とか続けたりしているのだったッ・・!🥺🥺 [ここまで読んでくださった方もきっとそうだろうッ・・!]俺たちの冒険は、これからも灰色のままだッ!)
私たちに取り憑いている、決して現前することのなかった過去を幽霊と呼ぶとき、その幽霊は、黄色いコスモスのなか、0.2秒の気まずい沈黙と共に、ときどきその芽を息吹かせるだろう。成仏が劇場のなかにあると言うのは、203号室に正義があると言うのと同じくらい奇妙なことで、そもそも回帰すべき神の国なんてないのだから、ひたすら今の現実の今性を受け入れていくしかない。
灰色の夏休みもそれほど悪くないな、と、スマホの画面をグレースケールにしてみて思う。Googleフォトの写真だって、カラーよりもグレースケールの方が、青々しく見えるときもあるのだし、もしかしたら、いずれ朝焼けにも夕暮れにも見えてくるかもしれない。グレーはグレーだからこそ、色に開かれている。おばけはおばけだからこそ、今に開かれている。
青々しい思い出も、苦々しい記憶も、あらゆる過去も、そうだろう。勝手にあとから着色されていく。青やら赤やら白やら黒に。なんだって、いい加減に誤解しておけばいい。もとから私たちは覚え損なっている、というよりそもそも覚える気がない、だから最初から成仏のしようがない、あれは一昨年だっけ去年だっけ、なんだ今年か、年々一年が早くなっていく、この子誰だっけ、また来年、とりあえずああそうでしたねと言っておく、
写真も言葉も、自分自身のことも、風に吹かせておいて、芽生えのままに咲かせておけばいい。
なんとか、なる。