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わたしがそこそこ自粛する理由


死が身近になったという人もいるけれど、死は、いつだって、身近だ。


4月から、そこそこの自粛をはじめた。

誰に言われるわけでもなく、自分ではじめたことである。

全く家から出ていないわけではなくて、1日1回は散歩に行くし、週に一度は、本を借りるために図書館に行く。たまに髪を切りに行くし、IKEAにも行った。

月に、2、3回は、Googleで混み具合を確認して、空いている時間に銭湯に行く。露天風呂にだけ入って、内風呂やサウナには、入らない。

そこそこの、自粛である。


死は、身近になっただろうか。

わたしは、よく、駅でつぎの電車を待つとき、後ろの人が自分を線路に突き落とさないかと、心配になる。
車に乗るときだって、横断歩道を渡るときだって、目の前の車が自分に突っ込んでこないとは限らない。細い夜道で他人とすれ違う時だって、彼が通り魔である可能性がある。

ひとは、簡単に死んでしまう。

れいの病気の20代の死亡率は、少なくとも日本だと、0%だ。
(統計に上がっている限り、20代で亡くなった人はいない)
わたしが死んじゃうことは、たぶん、ほとんどない。

だから、今も昔も、死ぬことは、いつもと同じくらいの距離でわたしのそばにあって、それが私にとって、近くなったり、遠くなったり、ということは、きっと起きていない。

同じくらいの身近さで、以前と変わらず、死はわたしのそばにいる。



わたしは、国民全員で、とか、自宅にいるだけでヒーローに、という言葉に、疲れてしまった。

美術館や劇場を叩いてみたり、サーフィンやパチンコに行く人を馬鹿にしたり、いいじゃないか、べつに、他人が劇場やパチンコに行ったって。
(私はパチンコは興味がないので行かないが、劇場や美術館が再開したら、すいている時間に行くつもりである。)

どうして、ヒーローか悪役か、どちらかにしたがるのだろう。
どちらでもない人たちがいていいじゃないか。
私たちは、人間にすぎないのだし。



空気。

わたしは、この空気が、怖い。

相互に、互いがきちんと自粛しているかを監視し合っているような、この、空気。
いまや外出するだけで、人は、罪の意識を抱えずにはいられなくなってしまった。

けさ、近所の大きな公園が、人が集まっている公園として、テレビで取り上げられていた。

「みなさんが理由としてあげるのが、自粛要請にともなって子供にストレスが溜まっている、ということがあります」
「今は国民みんなで、我慢する時と思って、頑張って欲しいですね。」
「そうですね、一つでも密があれば、感染リスクは防げないですからね。」
「続いてはパチンコ店のニュースです・・・。」

つぎに名前が掲げられるのは、お店ではなく、人ではないかしら。




ひとは、生き物である限り、いつかは死んでしまうのだし、
体液を交わらせずには、生きていけない。

だから、わたしの自粛は、そこそこ、だ。

自分はうつってもいいけど、他人には絶対うつしたくないから、できることは全てやる。マスクもつけるし、お金やドアノブを触ったらすぐに手を洗う。人が大きな声で喋っているところには行かない。(それでも、生きている限り、感染リスクをゼロにすることはできないだろう。)
だけれど、わたしは、IKEAで家具を買い、図書館で本を借り、劇場で演劇を観る。ぜんぶ、わたしにとっては、必要なことだ。

どこまで自粛するのかは、自分で決める。
わたしはヒーローでも悪役でもなく、ただの人間にすぎないから。

わたしは、そこそこ、自粛します。








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みなと
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