あの恋
noteには、いくつか用意されたお題があって、そのうちのひとつに「あの恋」というものがある。
人気タグの一覧にも、恋愛が入っているようで、つくづく、恋というのは人類普遍の考えごとなのだと、感心してしまう。
わたしはすっかり恋をしておらず、語るほどの経験もないものだけれど、今日は、「あの恋」について、ちょっと書いてみようと思う。
あの恋。
というと、彼女のことを思い出してしまう。
彼女は、病気がちで、あまり一緒に外で遊ぶことができなかった。
これは、初デートのときに撮った写真である。
わたしは遊園地がそれほど好きではないのだけれど、どうしても、ということで、観覧車に二人で乗って、向こうから告白されて付き合うことになった。
大学二年生のときに、彼女はイタリアに留学することになってしまって、しばらくはメールでもやりとりしていたのだけれど、いつのまにか連絡を取らなくなってしまった。ほろ苦い青春の思い出である。
嘘である。
写真はフリー素材のサイトから拾った。そんな彼女は存在しない。
この写真がどこなのか私は知らない。そんなのばかりである。
しかし、である。
アプリを閉じずに、ちょっと考えてみてほしい。
夜中に独り、うすぎたない団地の一室で、こういう妄想をしていると、これが真実でもありえたのではないかと、ときどき思ってしまうのだ。
ひとの記憶は、どこまでも、あてにならない。
いまは無いように思っていても、本当はかつてあった、というようなことが、往々にしてありうる。
そもそも、人の人生というのは偶然の賜物である。誰と誰が出会って、出会わなくて、というのは、完全に、偶然である。出会っていたら今頃結婚していた人も、多いのではないかと思う。
そういう意味で、ありえた人生と、いまの人生は、重なり合っている。
そういうことを考えていると、だんだん、イタリアの彼女が本当に思えてくる。
あの端正な顔立ちが、脳裏に浮かび上がってくるのである。
そうなのだ。
じつは、イタリアの彼女は、実際にいたのである。
彼女はいまでも、わたしからの復縁を願うメールを、イタリアでパティシエの修行をしながら、待っているのである。
いまごろ陽気なイタリア男たちが、二重の美しい彼女をナンパするのだが、彼女は見向きもせず、パティシエの勉強に精を出し、スマホのわたしの写真を眺めては、憂き目がちにため息を漏らして、カシオペアが輝くイタリアの夜空に、日本にいるわたしのことを思って、涙を流すのである。
彼女の憂がちな横顔を見た、イタリアの陽気な船乗りたちは、赤ワイン片手にピッツァを御馳走して彼女を慰めようとするのだが、満たされない心は、今日も日本にいるわたしに向けられているのである。
「嗚呼、みなと・・・わたし、絶対、パティシエになって、世界最高のミルフィーユ食べさせてやるんだから!」
人格が疑われる。
妄想もここまで来ると、病気である。
しかも、そう言いつつ、ニヤニヤしながらこういうのを書いているから、だめである。彼女のスリーサイズや、似ている芸能人なども考えていたのだが、さすがにここに書くのはやめた。
恋から遠ざかっているのも、無理がないと思う。
いつかは、「あの恋」について、まともに書けるようになりたいものである。