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マイノリティと問い

たとえば、「薬指と人差し指どちらが長いのか」で、人間をマジョリティとマイノリティの側に分けることはできるかもしれないけれども、そんなことをやったところで、何の意味もない。

マジョリティ/マイノリティに分類されるようなカテゴリーについて語る時に、特に気をつけているのだけれど、そもそも、その区別を、今、その場で持ち出すことにどういう意味があるのかどうかって、けっこう大事だと思うのだよな。

「マイノリティのために何ができるか」あるいは、「マイノリティを忘れないために何ができるか」という問い自体が、自身がマイノリティたりえないことを前提としている問いで、わたしは、少し、こわいな、と思ってしまう。
(ここで言っているのは、「マイノリティ」なるワードが、具体的ではなくて、ざっくりと使われてしまっているということが、とても気になってしまっている、ということです。「あなたはマイノリティですか?」という問いに対して、どんな人でもイエスともノーとも答えられるのと同じで、そういう問いは、問い自体が、社会への視線を欠いている、ような。)
(だから、「社会の中で不利益を被っている”特定の”人たちに対して、どういう配慮がありうるのか」というような問いをここで批判しているわけではないので、誤解なきよう。ある特定の属性を持っている人たちが、問いをもとに運動を起こして、社会を公正なものに変革していくことは、基本的によいことだと思っています)

マジョリティ/マイノリティの区別が、社会(あるいは、もっと小さな意味での、人々の集まり)によって形作られるものである以上、誰しもが、社会の状況に応じて、マイノリティになりえるのだ。
だから、誰がマイノリティかは、社会に対して相対的で、社会に先立って、なんらかの「マイノリティ」なるものが実在すると考えてはならないと思う。

私は、義務教育にかなり馴染めず、何年か小・中学校にいっていなかった時期があって、そのときに、かなり社会なるものに突っ放されたように感じたのだけれど(そう言う意味で、学校教育のなかでのマイノリティではあったと思うし、そういう意識もあったのだけれど)、自分自身がいつだってマイノリティであるかと言われるとそうではないし、たとえば、セクシュアリティという点で言えば、単純な数の上ではマジョリティ側に分類されると思う、今のところは。
とはいえ、自分が好きな人のタイプ(たとえば、私はショートカットの人が好きで、ショートカット以外の人は滅多に好きにならない)をどんどん細かく区分していけば、自分と全く同じような人間がいない以上、自分だけの問題なのだから、そう言う意味では、(ある分類のもとでは)マイノリティでもある。

分類そのものが、分類されるものに宿っていると考えると、どうもおかしなことになってくるような気がしていて、分類は、分類される者の側ではなくて、分類する者や社会の側にある。

なにがしかの問いを立てること自体、あるいは、ある言葉を用いて語ること自体が、ある意味でその人の価値観や社会観と結びついていて、だからこそ、問いや言葉自体が暴力性を帯びると言うことについて、もう少し議論されていっても良いと思うのだよな。

昔、「どうして学校に来ないの?」と何度も言われたけれど、そんなこと言われたって、「なんで学校に行くんですか?」としか返しようがなかった気がする。相手の適切な答え方が存在しないような問い(あるいは、想定していないような問い)は、場合によっては暴力だと、わたしは思う。

誰しもが、いつだって異なる孤独なマイノリティでありうることを忘れないようにしたいと思います。


ちなみに、人をカテゴライズすることについては、このnoteにくわしく書きました。よければ。

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みなと
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