役にたつ建築批評をしたい
これまで他の建築家よりも文章を書く機会に恵まれてきた自分だが、
建築批評を書いてもイマイチ他の人にリーチしていないという印象を常々感じている。
特に、建築関係者ではない人たちに意味のある批評を書けていないなーと感じていて、
これからは「役にたつ建築批評」を書くことを心がけようと思い立った。
例えばこんな感じ。
建築批評が建築物の価値を持ち主や設計者にフィードバックする流れを作りたい。
建築好きが嗜むための美麗なテキストや曖昧模糊な比喩表現、
「建築の楽しさ」を伝えるといった趣味嗜好に建築を限定するテキストではない、
建築業界外の広いユーザーにリーチすること。
建築物の何かしらのガイドとなる実質的かつ多角的に価値のあること。
批評においてこの2点を商店建築の連載「商業空間は公共性を持つか(下記リンク)」でも心がけてきたし、
今後も展開していく。
(また、どんな建築でも批評はできると僕は思っているので、
「この建築には批評が足りない!」という方は、気軽にご相談ください。笑)
以下は「役にたつ建築批評」に至るまでの、より詳しい解説となる。
01.建築批評はつまらなくなった?
ここ10年か、もしくはそれ以上、この言葉を耳にする。
確かに、住宅建築の批評文を書いたとして、
それを喜ぶのは設計者とその周辺の建築玄人だけだ。
場合によっては、建築物のユーザーである施主にとっては単なる迷惑にしかならない。
公共建築を批評したとしても、レトリックを尽くしてデザインを褒めようとも、
それによってより公共的な空間になるわけでもない。
商業建築への批評文が、売上や資産価値を上げた試しもない。
現在建築批評は業界人が嗜む「知的なテキスト」にすぎない。
シンプルに言えば、あまり役に立ってないのだ。
役に立ちにくいから、批評の需要もないし、批評することが仕事にもならない。
でも建築批評はもう少し、建築の役に立てるし、
建築に関わる素人・玄人関係なく価値のあるものになれると、僕は思う。
以下では芸術作品における批評と建築の批評を比較し(02〜03)、
役にたつ批評の作法を、自分なりに考えてみる(04)。
02.批評はUI(ユーザーインターフェース)
役にたつ建築批評の話を始める前に、
芸術批評について書かれた以下の記事を共有したい。
上記記事によれば、
芸術批評は一般的には芸術鑑賞の仕方や、鑑賞することへの考え方の違いはあれど、
「批評は鑑賞のガイドである」という点は共通しているのではないか、
とのことだ。
難解で奥深い芸術作品の良さを、半ば素人である鑑賞者に理解してもらうためのガイドとして、
批評は機能する。
鑑賞のガイドとしての批評は、芸術作品にどのような価値があるか、どのように鑑賞すると面白いかを僕達に教えてくれる。
これによりアートの文化圏とマーケットが生まれる。
作家の地位向上にも繋がるし、所有者にとって文化的にも経済的にもプラスな効果が生まれる。
超高値でアートが取引されることへの批判はあるかもしれないが、
批評が、鑑賞者(素人)と関係者(玄人)の双方にとって重要なユーザーインターフェース(UI)であることは明らかだ。
03.ユーザーの重要性
しかし、建築の批評はUIになれていない。
なぜなら建築には、芸術作品のような鑑賞者が存在しないからだ。
僕独自の解釈も混ざるが、建築(architecture)は建築物(building)を形作るための「解釈」や「見立て」、もしくは「指針」や「コンセプト」だ。
建築(architecture)の図面や模型を介して建築物(building)を設計し、建築(architecture)の図面や模型に従い建築物(building)を施工をする。
そして理想的には、建築(architecture)での意図と歩調を合わすように、住人や運営者や客などのユーザーが、建築物(building)を使い倒す。
このユーザーが芸術作品における鑑賞者のように思われるかもしれないが、
以下の3点で全く異なる。
①芸術作品はジーッと意識的に鑑賞するが、建築物のユーザーはカジュアルに無意識的に利用する。
②鑑賞者は潜在的かつ将来的にアートを売買する顧客になりうるのに対し、ユーザーはすでにその建築物を所有している。もしくは自由に利用できる立場にある(潜在的かつ将来的な顧客になりにくい)。
③鑑賞者はどこまで行っても鑑賞ガイドで導かれうる素人として見ることができるが、ユーザーは長年建築物を使い続けることにより、設計者や建築関係者の想定を超越した経験を有する玄人になり得る。
上記①〜③の違いより、建築批評は芸術批評にはない機能不全を発症する。
①→芸術作品では「批評によるガイドがあって初めて楽しめる」というケースが生まれるが、建築物は批評のような意識的に読まないといけないものがなくても楽しめる方がいい。
(=建築批評の体験問題)
②芸術批評はアートのマーケットを拡大させるが、建築批評においては、批評がされたところで建築物やその関係者の経済的メリットは生まれず、拡大させるマーケットも存在しない。
(=建築批評の経済問題)
③芸術批評は鑑賞者と同じ視点に立つ優れた感性や視点として、鑑賞者に求められるが、建築批評は建築物のユーザーと同じような経験の積み重ねができない。つまり、建築批評はユーザーと同じ視点に立てず、ユーザーは建築批評を必要としない。
(=建築批評の経験問題)
詰まるところ建築物は、
アセットの構造的に、批評が価値に関与しくくなっている。
構造の問題なので、批評する人の能力やスタンス、気概といった属人的な問題ではない。
単に批評が向いてない、だけなのだと思う。
04.「役にたつ建築批評」を目指して
建築批評がつまらなくなったのではなく、
芸術批評と同じ手法で建築を批評してもあまり意味がない(つまらない)ことに気付いた、というのが正確なように思える。
建築では、美術館に来場してジーッと作品を観て帰っていく鑑賞者よりも、何の気なしにカジュアルに長年建築物を使い続けるユーザーの存在の方がでかいことが、その理由だ。
なので、「ユーザー」の存在を組み込んだ建築批評なら、何かしらの役に立てるのではないかと思う。
例えば、以下のような目標設定はどうだろうか?
A. ふるまいに関する批評
建築物のデザイン意図(建築)がユーザーにどのような影響を及ぼしうるか、つまり、建築のデザインによって、人や物、場合によっては動植物が、どのようなふるまいをするかを、建築批評視点から仮説を立て、さらに、見立てた行動がどの程度再現性があるかを、現時点で評価する。
B. β版的批評
建築物がユーザーに使われている様子を実際に観察・検証し、次の建築設計に活かせるよう、ユーザーの経験値を建築視点で再解釈する。
C. 価値を発掘する批評
ユーザー視点も含めた様々な視点から、建築設計者が意図していなかった建築物の現れを発見し、対象の建築物の新たな使い方や価値を発掘する。
D. 建築的知性の批評
建築物(もしくは建築的知性が認められうるモノ一般)に込められた建築(的意図、architecture)を、建築物そのものから上手いこと切り離し、別の機会でも使える知的アセットとして評価する。
E. ユーザーガイド批評
建築物の「使い方ガイド」として、建築的意図を共有する。
Aは僕が商店建築の連載「商業空間は公共性を持つか(下記リンク)」で心掛けていた手法だ。どの程度満足にできたかはさておき、「建築物で何が起きうるか?」を建築設計視点から仮説し、
建築的意図と建築物の実態と比較できる材料を作るということを目的としている。
あくまで仮説であることが重要であり、逆に言えば仮説になっていないといけない。
建築物の設計時の想定と現状の違いを明らかにし、より適切な舵取りを検討するという意味では、批評により建築物のメンテナンスを行なっているとも言える。
Bは建築物のユーザーが野生で見つけた価値を、その場の特殊解にとどまらないよう一般化することを目的としている。建築設計とユーザーという断絶しがちな二者の関係を批評によってブリッジし、
アジャイル的に建築設計にフィードバックできることは、
設計者だけでなく、複数の商業空間を運営する事業者にとっても価値のある取り組みになりうると思う。
僕が「Ex.行為調査(下記リンク)」のなかでやろうとしていたことに近いが、より深い考察が必要だ。
CとDは、近しいことはすでに建築批評でも行われているし、おそらく「設計者の意図の外の発見」と「建築物から建築を抽出」が昨今の建築批評の主なスタンスだと思う。ここではそのスタンスが美的評価、詩的表現やレトリック、つまりオシャレな文章にとどまらず、
次のユーザーや次の設計者のための知識として成立することを、追加で意図している。
Eは「そもそもこれを批評と呼べるのか?」と思われるかもしれないが、ユーザーの心の芯に響く「使い方ガイド」の作成は思いの外難しい。nLDKのような紋切り型の説明やユーザーの行為一つ一つを限定してしまうような取説に留まらない、柔軟な表現や概念、他方で分かりやすさやアレンジのしやすさが求められる。個人的にはA~Eの中で1番難易度が高く、かつ設計行為に近い批評だと思う。
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MACAP代表 西倉美祝
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