コロナ後の住居?地域コミュニティ?公共空間?商業空間?(商店建築連載の雑記①)
商店建築という雑誌で、5月から連載を始めた。
「商業空間の公共性」をテーマに、様々な人にインタビューをしつつ、実際の空間の分析を行う企画で、1年間実施する予定だ。
※商店建築2020年5月号p256-257掲載
企画内容に連動して、毎月noteでもテキストを書くことにした。
シンプルにすることを意識した雑誌紙面に対して、noteのテキストはその後日談・雑記にあたる。
合わせて読んでもらえると、より面白いと思う。
01. 修正を迫られる商業空間
当然だけど、商業空間は経済原理に従ってデザインされるのが普通だ。
売り上げをなるべく上げるため、最大効率で不特定多数の人を空間に動員し、商売に必要のないデッドスペースを削除し、商品の売買に必要な動線と滞在スペースのみで構成されている。
しかし、COVID-19によって一部、そのあり方を見直される必要性が出てきている。
ぱっと頭に浮かぶ解決策は、
・・・あたりだろうか。いずれのアイデアも可能性があるかもしれないが、
という疑問は残る。
02. 安全な拡張が望まれる住居
一方、住居にこもりきりになっている僕たちは今、都市で人と会えることの価値、都市で生活を営むことの必要性を強く感じている。
オンラインでの打ち合わせや飲み会が可能になった現在は、以前ほど住居が閉じたものには感じなくなったかもしれない。
しかし、それでも外の環境は恋しいし、目的がなくとも人に会えたり、同じ場所を共有できる都市空間は魅力的だ。
そもそも、食料などの生活物資を住居内で生産することは、大富豪でもない限り不可能に近い。
そうしたとき「新たな需要に合わせて住居のデザインが変わる」という話は想像できるし、実際に起き始めているだろう。
例えば・・・
・・・などのCOVID-19の前から存在する方法は、有効な手段として今後加速するかもしれない。
しかしながら、すべての人が住居や住まい方をすぐ変更できるわけではないし、住居だけでできることには限りがある。
住居の外のことも並行して議論する必要はあるだろう。
また、このテキストのメインテーマは商業空間なので、住居再考の重要性を認識しつつ、住居の外の変化に議論を移したいと思う。
03. 住居を脱して地域コミュニティへ?
上記の状況を踏まえると、最初に出てくるアイデアは「地域コミュニティの活性化」だと思う。
特定多数の人と出会うことができ、生活を営むのに十分な物資も調達できる小さな社会圏は、住居よりも少々大きい接触リスクを対価に、住居以上の公共性を享受できる。
「特定多数」というのがポイントで、「不特定多数」のモノ・コト・ヒトに出会う都市よりも、想定内の関係にとどまるため、想定外のリスクに悩まされることが少ないのがメリットだ。
顔見知りの人たちで構成されているコミュニティでは、誰が犯罪者かわからない都市空間のような防犯上の不安はないし、お互いのことを知っているからこそ相互扶助も可能になる。
もちろんウイルスについても、仮に感染者が発生しても「不特定多数」と出会う都市空間よりはるかに追跡が簡単だ。
さらに、職場が在宅か近所だったとした、生活が地域コミュニティ内で完全に完結するので、リスク削減という意味ではより効果的だ。
つまり、より自己完結した地域コミュニティであることが、この論の原理に沿ったものであると考えることができる。
このように、地域コミュニティの活性化は、人によっては住居にこもるよりも素敵なライフスタイルを低リスクで得られるかもしれない。
しかし僕個人としては、この考え方にどうしても諸手を挙げて賛成することができない。
理由は以下の2点だ。
①の理由を挙げるのはおそらく僕という人間の性格の問題でもある。
職場でもないのに上下関係ができたり、お互いの生活に干渉したり詮索し合わなくてはいけないというのは、少し気が重い。
これがもしCOVID-19の前のように、地域コミュニティに所属しつつ都市空間も自由に闊歩できるのであれば多少は気晴らしもできるが、ここで述べる「地域コミュニティの活性化」は小さな経済圏・循環・人間関係で完結することを本旨としている。
そうでないと「特定多数」がどんどん「不特定多数」になっていくからだ。
僕以外にもこのマインドの人は少なからず存在するだろうし、そういう人たちのために「地域コミュニティを選ばない自由」を保証したい。
②は住居と地域コミュニティの関係についての問題だ。
例えば家で家族と喧嘩したとき、もしくは虐待されたとき、都市空間という不特定多数に開かれた場所があれば、一時的に都市へ逃げ込むことができるが、その逃げ場はない。
地域コミュニティの自然環境や悪化は、住居の住環境にも影響を与える。
コミュニティの中で村八分されてしまった人は住居にいても差別的な待遇に悩まされるだろう。
住居と連続した地域コミュニティは、住居内で発生した問題を引きずりうるし、
逆に地域コミュニティ内で発生した問題は住居内まで影響しうる。
住居とリスクが地続きの地域コミュニティのみに依存して生活するということは、いざというときの保険が効かない。
結局、住居と地域の外の何かに帰属することも考えなくてはいけないように感じる。
04. 小さな拠点としての商業空間
都市の中にある公共空間(ストリートなど)と商業空間を活かすという方向性もあり得るはずだ。
公共空間ついては、連載では公園を例に挙げて商業空間と同列に論じたが、ストリートのような「不特定多数の人に共有されざるを得ない空間」は、また別の可能性があるのかもしれない。
ここでは下のテキストを共有するにとどめておこうと思う。
商業空間はどうか?
物の売買を軸に生活のささやかなセーフティネットとして機能する商業空間は、住居のオルタナティブな生活拠点になりえるのではないだろうか?
商店建築6月号で特集する予定の「喫茶ランドリー」をはじめ、いくつかの事例がその可能性を見いだしているし、現にそういう場所として機能しているものもある。
地域コミュニティとは異なり、(公共的な小さな拠点としての)商業空間は住居と距離を取れることがメリットだ。
安全な移動手段さえ持っていれば、少し離れた商業空間に行って、自分が住んでいるエリアとは別の人間関係や生活に出会うことができる。
住居とその周辺では満たされない目的があったら別のエリアにある商業空間でそれを満たすという、選択肢の幅も生まれる。
その商業空間に公共的な意識があれば、駆け込み寺的な役割を担うことも可能だ。
逆に商業空間で何か問題(感染者クラスターなど)が生じても、住居には影響がないので、一時的にその商業空間を生活から切り離せば事足りる。
小中規模の商業空間の中にできるだけ多くの自律した循環を導入できれば、住居のオルタナティブとなる、自律した「小さな拠点」として捉えられるかもしれない。
もちろん、商業空間が公共的になるためには、空間デザイン、運営の工夫、ストリートなどの公共空間との適切な連携(狭い店舗面積を補う、など)が必要になってくるだろうが、
この取り組みが冒頭の解決策の一つ「②空間に余裕を持たせる」のインセンティブにも繋がると思う。
そういった「商業空間が公共的になるための条件」については、この連載を通じて、今後1年間で掘り下げていくつもりだ。
05. 嫌な予感:排他的な拠点になる可能性
「商業空間が公共性を持ち、小さな拠点として機能する」という話は、以前から僕が活動のイデオロギーとして掲げてきた「企業の公共性」や「オルタナティブ・パブリックネス(AP)」の延長線上にもある。
しかし、以前考えていたことがそのまま通用するわけもなく、自分の中でもいくつかの修正を迫られている。
そのうちの1つは、
商業空間が「不特定」多数の人ではなく「特定」多数の人の受け皿になる
という認識の変更だ。
当たり前だが、なるべく大人数が利用できればできるほど、その商業空間の売り上げは上がる。
さらに、不特定多数の人が受け入れられる空間であればあるほど、その商業空間は公共的であるとも言える。
「大人数」と「不特定多数」は必ずしも一致しないが、ここでは議論を簡略化するためにあえて同一視すると、「大人数=不特定多数」の来客が商業的にも公共的にもプラスに働く・・・というのが、これまで展開していた議論だった。
しかし、人を無限に受け入れられる空間はCOVID-19を前にすると考えにくく、「特定」の分類に還元された多数の人を受け入れる空間にシフトチェンジしなくてはいけない。
なので、問題は何を「特定」にするかだ。
この「特定」が「経済力」にのみ結び付いてしまいそうなのが怖い。
例えば・・・
「コーヒー一杯が10000円する商業空間、とてもクリーンで空間も良く、またビジネス・ライフチャンスに結び付く他者との出会いも期待される。もちろん感染予防もバッチリ」
・・・という極端な例を想像してみよう。
コーヒーを注文することがその空間の入場券みたいなものになっていて、裕福な人たちだけのサロンのような空間だ。
空港のファーストクラスラウンジもそれに類似する。
そういう空間が存在してはいけない、というわけではない。
危惧すべきは、ある一つの強力な還元、特に「経済力」の程度によって、大多数の商業空間がサロン化してしまうことだ。
コーヒー一杯に支払えるお金の大小で付き合う人間や関わる物事がハッキリ分かれてしまい、
「コーヒー10000円/cupで治安も良く、清潔で、ウイルス感染リスクも低い商業空間」と
「コーヒー100円/cupで治安も悪く、不潔で、ウイルスが蔓延している商業空間」しか都市空間に存在しない
・・・といった格差が、社会全体を覆う可能性がないとは言い切れないし、現にそうなってしまっている部分もある。
①個々人が帰属する拠点(商業空間など)を「住居」以外に複数選択できる
②各拠点では特定の分類にカテゴライズされてしまうが、その分類が各拠点で多様である
③経済力や身体的特徴が違うとしても、どこかの拠点で誰とでも接点を持ち得る
・・・あたりが、今後都市における商業空間を始めとした小さな拠点を考えるうえで重要になると思う。
上図:複数の空間(拠点もしくはオルタナティブ・パブリック=AP)に帰属しながら構築するライフスタイル(雑誌紙面抜粋)
06. 別の展望:「潜在的公共性」を蓄積する都市
ここまでの通り、僕の論旨は「住居」「公共空間」「商業空間」のバージョンアップであり、「地域コミュニティ」への一元化の回避だ。
(推測だが、地域コミュニティの活性で望まれる要望も、上の3つのバージョンアップで満たされるのではないだろうか?)
ここからはまた別の想像を展開してみる。
そもそも都市空間において「他者と関わる」とは、一体どういうことなのだろうか?
都市空間内の公共空間(広場でも想像してもらえれば良い)で知らない人と出会い、話が始まり、空間を共有するシーンを想像してみよう。
まず、全く知らない人といきなり会話し始めるというケースは極めて稀だ。
「お互いが類似した趣味嗜好を持っていることを知っている」とか
「よく同じ時刻に同じ場所で見かける」とか
「その人の行為に興味がある」とか
「単純に自分と似ている」とか・・・
何かしらのキッカケがあって初めて会話、つまり相互の活動が始まる。
では、「会話はまだ始まってないけど、キッカケだけは存在している」とは、一体どういう状態なのだろうか?
たとえ話で少し考えてみる。
この状態はアレントの解釈に沿えば「公共的」とは言えないだろう。なぜなら、まだ何も相互行為(顕在的な活動)をしていないからだ。
しかし、この状態をキッカケに活動が展開する可能性があるのは事実で、いわば「潜在的な活動」がひたすら蓄積されている状態と言える。
そこで、
「お互いを無限に見聞きし知っている(潜在的活動)けど、接触には至らず、相互行為は展開していない状態」を仮に
「潜在的公共性」と名付け、
「会話が始まり相互行為が展開(顕在的活動)し、人間関係の網の目が構築される状態」を
「顕在的公共性」と呼んでみよう。
アレントの「活動」を「顕在的活動」と「潜在的活動」に分解してみたというのがこの話のミソだが、それぞれは以下のような性質の違いがあると考えられる。
ここで、都市空間を「無限に潜在的公共性を蓄積し続ける場所」として考えてみよう。
人同士は「空間は共有する」けど「接触はしない」。
しかし、お互いやっていることや考えていることを見聞きすることはでき、「関わったことはないけど知っている人」を無限に蓄積していく。
もし、関わり合いたくなった場合は、仮設的にその場で接触するか、また別の親密な私的領域に移動する。
・・・そんな都市観だ。
この都市では、モノ・コト・ヒトに接触するリスクを回避するために「排除」という方法を取らずに、
「接触はしないけど、他人のことを見聞きするチャンスを無尽蔵に増やす」ことを主眼に置く。
つまり「顕在的公共性(接触)」はない(親密な場所で担保される)が「潜在的公共性(非接触)」は無限に増幅する都市ということになる。
(そうすると今度はその「接触のための親密な場所」がどう立ち現れるかが議論になりそうだ。)
ここまで話してみると、なんか元々現代の都市ってそんな感じだった気もするし、同じような議論を展開した先人がいるような気もする。
また、「他人をひたすら無限に見聞きできる都市」ってちょっとヘンタイだなーとも思ったりした。笑
現実はひとりの意見の通りに動くことなどありえないので、僕自身のモチベーション、もしくはイデオロギーとでも思ってもらうのがちょうどいいかもしれない。
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MACAP代表 西倉美祝
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