フランシス・ジャムの「星がひとつほしいとの祈り」を堪能しよう
はじめに
今回ご紹介するのは、フランスの詩人・フランシス・ジャムによる詩「星がひとつほしいとの祈り」(PRIÈRE POUR DEMANDER UNE ÉTOILE)です。
星がひとつほしいとの祈り
Ô mon Dieu, laissez-moi aller prendre une étoile :
おお神よ 星を1つ取りに行かせておくれ
peut-être que ça calmera mon cœur malade…
きっと私の病める心をなだめてくれるその星を。
Mais vous ne voulez pas que je prenne une étoile,
でもあなたは、私が星を取るのを望まない
vous ne le voulez pas et vous ne voulez pas
あなたはそれを望まないし、あなたはこの人生で私に訪れる少しの幸福も望まない
que le bonheur me vienne un peu dans cette vie.
Voyez : je ne veux pas me plaindre et je me tais
見なさい、私は不平を言うことを望まない。そして私は恨むこともせず嘲ることもせずに耐えている。
dans moi-même, sans fiel aucun ni raillerie,
2つの石の間に隠れた血だらけの鳥のように。
comme un oiseau en sang caché entre deux pierres.
Oh ! Dites-moi si cette étoile c’est la mort ?…
ああ、 私に言っておくれ、その星は「死」だろうか?
Alors, donnez-la-moi,
それなら、私にその星を与えておくれ
comme on donne un sou d’or
à un pauvre qui a faim assis près d’un fossé ?
溝の近くに座りお腹を空かせている貧乏人に 人が一スーの金(一日分のパンの値段に相当)を与えるように。
Mon Dieu, je suis pareil aux ânes aux pas cassés…
神よ、私は 足の折れた ロバと 同じだ
Ce que vous nous donnez, quand vous le retirez,
c’est terrible, et l’on sent alors
dedans son cœur passer comme du vent terrible qui fait peur.
お与えになった物をまた引き下げるとは、ひどいことだ。
まるで 心の中を 、恐怖をもたらす恐るべき風が通り過ぎるように 感じる。
Que faut-il pour guérir ?
この病気を治すにはどうすべきか?
Mon Dieu, le savez-vous ?
神よ、あなたはそれを知っているだろうか?
Souvenez-vous, mon Dieu,
que je portais du houx
lorsque j’étais enfant
auprès de votre crèche
où ma mère arrangeait doucement les bobèches.
思い出してほしい、神よ、
私が幼かったとき、
母が静かに燭台を整えているあなたの飼葉おけ(家畜用のエサ入れ)の近くへ
私がヒイラギの枝を運んだことを。
Ne pouvez-vous me rendre un peu ce que j’ai fait
私がしたことを
すこしばかり返してもらうことはできないだろうか。
et, si vous croyez que ça peut guérir mon cœur malade,
ne pouvez-vous, mon Dieu, me donner une étoile,
puisque j’en ai besoin pour la mettre ce soir
sur mon cœur qui est froid, qui est vide et qui est noir ?
そしてもしもあの星が私の病める心を
治せると思うなら、
神よ、あれを一つ私にくれないか。
なぜなら、私はあの星が
必要なのだから。
今夜それをこの凍えた心臓、この空虚な
黒い心臓の上へ置くために。
ステンドグラス風アート
この文章をモチーフに絵を描いてみました。それがこちらの作品、「星がひとつほしいとの祈り」になります。
星が欲しいと祈る純粋無垢さを出したくて、祈る女の子は装飾の少ない灰色の服を着せています。この服は繊維の質感が出るように塗っています。髪の線は曲線美を意識して、塗り方は水彩風に塗りました。円を挟んだ左上の星に向かって祈りを捧げています。背景の黒は円の中の虹色を引き立てる役割も担っています。内側の円のフチには原文をあしらい、円の中にはオオイヌノフグリという花を描きました。なぜこの花を選んだかというと、「星の瞳」という別名があるからです。全体としてミュシャを意識して作品を作りました。
フランシス・ジャムの生涯
素朴な易しい言葉で、山や野・生き物、少女、信仰などをうたった詩人、フランシス・ジャム。「詩のドゥアニエ・ルソー」と称されたそうです。
(ドゥアニエ・ルソーとは、アンリ・ルソーのこと。19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの素朴派の画家。 20数年間、パリ市の税関の職員を務め、仕事の余暇に絵を描いていた「日曜画家」であったことから「ドゥアニエ・ルソー」の通称で知られます。ドゥアニエとは税関吏のフランス語。)
1868年、スペインと接するフランスのトゥルネ生まれ。1876年、父の仕事の関係でピレネー=アトランティック県サン=パレに引っ越しました。フラン散策や採集を好んで、学業には身を入れなかったそうです。1888年、20歳のとき、大学入試に失敗し、文学への傾斜を深めました。同年父が没します。
翌年公証人事務所に勤めてやめ、詩作に打ち込み、1891年の『6つのソネット』を皮切りに詩集を出し、それらがステファヌ・マラルメやアンドレ・ジッドに認められました。(ステファヌ・マラルメ 1842-1898年を生きた、フランスの象徴主義(サンボリズム)を代表する詩人。音楽性のある詩を書きました。アンドレ・ジッドは1869-1951年を生きた、フランスの小説家。代表作に『狭き門』『贋金(にせがね)づくり』があります。)
1895年(27歳)、ジッドがジャムの詩「ある日」を『メルキュール・ド・フランス』に発表。フランスのオルテズという地域を好み、その山野・鳥獣・草花、そして少女らを愛し続けました。1896年、ジッド夫妻の北アフリカ旅行に合流しました。1897年、文芸誌上に、自らの文学姿勢のマニフェスト『ジャミスム宣言』を載せました。
初期の詩の朴訥なうたいぶりは、清新だともひけらかしだとも評価が分かれましたが、力強さを加えた1898年の『明けの鐘から夕べの鐘まで』で、世評が定まりました。
1900年、カトリックの信仰を固め、1905年、聖地ルルドへの巡礼に行きました。
この前後、少女に恋しては破れ、また、『クララ・デレブーズ』(1899年)、『アルマイード・デトルモン』(1901年)、『ポム・ダニス』(1904年)など、「少女もの」を書きました。
1907年(39歳)、カトリックの女性、ジュヌヴィエーヴ・ゲドルプ(Geneviève Goedorp)と結婚しました。1912年、オルテーズ教区の参事会員となり、1914年の第一次世界大戦開戦のときは、オルテーズの野戦病院を管理しました。1921年、バス=ピレネー県(現在のピレネー=アトランティック県)のアスパラン(Hasparren)へ移りました。1922年、レジオンドヌール勲章の授与を辞退。1917年に作家の全作品に対して贈られるアカデミー・フランセーズ文学大賞を受賞しました。
その後も活発な文筆活動をしましたが、1938年(70歳)アスパランの自宅で没しました。村の墓地に小さな十字架が立てられました。
参考
フランス語の原文はこちらから引用。
https://fr.m.wikisource.org/wiki/Quatorze_prières/Prière_pour_demander_une_étoile
フランス語訳は以下の「新訳ジャム詩集 尾崎 喜八 訳」を参考にしました。
マラルメについてはこちらを参照しました。
アンドレ・ジッドについてはこちらを参照しました。https://www.shinchosha.co.jp/sp/writer/194/
フランシス・ジャムの生涯についてはウィキペディアを参考にしました。できれば違う情報源をあたりたかったのですが、ウィキペディア以外のサイトで詳しいものがなく、ウィキペディアの参照元が本であったため信頼して載せています。
おわりに
いかがでしたか?星を求めるのは、心の病を治すための切なる願いだったのですね。
今回ご紹介した絵のクレジットを抜いたものは有料ゾーンからどうぞ。それでは、今回もみなさんの心の琴線に触れる一文との出会いがありますように。
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