町の登場人物として
バスから降りて、二、三歩、ふらふらと歩きだす。
引き寄せられるように、目の前の海へ向かって。
潮の匂いを含んだゆるやかな追い風に包まれて、自然と足取りが軽くなる。
身体が、喜んでいる。
三崎の町にいるというだけで、なんとなく嬉しくなってくる。
昭和の面影を残す港町。
私がこの港町を初めて訪れてから、たぶん、八年くらい経った。
時折ふらりと訪れては、決まったお店に顔を出すだけの繰り返し。商店街のある通りから、私はほとんど動かない。
それでも、通い続けていれば、顔見知りもぽつぽつと増えてくる。
今では十年以上暮らしている街よりも、話せる人が増えた。
通りを歩いていて、自分の名前を呼んでくれる人がいる。
そんなことは、いま住んでいる街では起こらない。
だから嬉しくて、何度でもこの町に足を運びたくなってしまう。
だから、どんどん好きになって――。
さびしさが、募る。
私はこの町の登場人物になれていますかと、誰かに聞いてみたくなるほどに。
―――
この町には、憧れのご夫婦がいる。そのご夫婦――SさんとKさんが開いている蔵書室で、先日、Kさんと話しているときに、〈登場人物〉という言葉が出た。
――町の登場人物は、変わる。
――ずっと同じ場所にいる人は、いない。
ご夫婦で出版社を営みながら、シェアオフィス、雑貨屋と幅広く手掛けてきたKさんだからこその、深い響きを持った言葉だった。
そういう情感のこもった言葉を聞くとき、もっと話を聞きたい、できることなら仲間に入れてほしいと、切実に思うけれど、移住もできないし、影響力もない駆け出しの、無名の物書きにできることはきっとない。
憧憬。焦燥感ーーまだ何者にもなれていない自分への、苛立ち。
それらは全部混ざって、さびしさになる。
この人たちの仲間になれないことへの、さびしさに。
私は、この町に住んでいる人たちが大好きなのだ。
だから、ただの観光客では、満足できなくなってしまった。
焦れる私に、Sさんは「とにかく通い続けることで、自分に合った繋がり方が見えてくるかもしれないよ」と、言ってくれた。
それからというもの、私はその言葉にすがるように、二、三か月に一回は三崎港に通うようになった。
時折町を訪れるだけの登場人物が、どうやって町と繋がれるのか。
答えは、まだ見つかっていない。
とりあえず、町のいろんな人と話して、少しずつ、次に来たときも話せる人を増やしていこうと思っている。
もちろん、自然に。焦らないように。
――――
地域、ローカル、町おこし。
それらの言葉に興味を持ち出したのは、私の専攻が民俗学だったから。
敬愛する恩師が、『地域からつくる』(藤原書店)という対談本を出していたから。
要するに、好きな人が好きなものは好き、という、思想やテーマとはかけ離れた理由からだった。
私には、故郷というものもない。
転校生だったし、いろんな場所に飛び込んでは去っていく、ということを繰り返しているから、どこへ行ってもなんとなく、異邦人という感覚が抜けずにいる。
そんな始まりで、いま日本の各地域がどういう状態なのか何も知らない私は、『凡人のための地域再生入門』(木下斉先生、ダイヤモンド社)という本をはじめとして、地域の活動について書かれた本を十冊ほど読んだ。
そうして、都心を離れて、自分の故郷ではない土地に飛び込んで、自由に仕事をしている人たちのことを知った。
私は、自分の暮らす国についてこんなにも知らなかったのだと、愕然とした。
ーーー
――何かやりたいと思ったら、その町で面白いことをやっている人に近づけばいい。
どこで見つけた言葉かは忘れてしまったけれど、その言葉は正しいと思う。
幸いにも、駆け出しとはいえ物書きの私は、〈ローカル・ヒーロー〉であるご夫婦に存在を覚えてもらえた。
だけど、進む道や方向が違うから(あるいは、私がまだ道の歩き方を決め切れていないから)、仲間にはなれそうもないし、憧憬を持って近づいてみても、なんだか中途半端な感覚は拭えなくて、図々しく他人の舟に乗りたがっているような、きまりの悪さがある。
じゃあ、何か実績を積んでから、この町に通うことにする?
そういうことも考えたけれど、それが不正解だということだけはわかった。
そんなことでは、いつまでたっても人とは関われない。
Sさんも、それは違うと言っていた。
「大成した後だったら、忙しくなるよ」
確かに、と納得すると同時に、Sさんの言葉に、背中を押されたような気になった。
この文章を書いているいま、先日町を訪れたときよりは、方向性が定まりつつあるような気がする(こういうときは、思い込みでもなんでもいい)。
それは、いろんな人の言葉を吸収して帰ってきたから。
魅力的な登場人物が歩いているこの町に、私は〈言葉〉を拾いに来ているのだと思う。
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