「偽りの寛容」という言葉にドキッとした… パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』勉強会(第1回)
「被抑圧者の教育学」1章を読んで
本の読み合わせ勉強会を行いました。
題材はパウロ・フレイレ著作の「被抑圧者の教育学」の翻訳版を用いました。著者のパウロ・フレイレは「意識化」「問題提起型教育」などを通し、20世紀の教育思想に大きな影響を与えた人物です。
何回かに分けてやってみようということで今回は第1章のみを読み合わせしました。以下、第1章の中で議論になった部分やその中から発展した話題などを抽出して書かせていただければと思います。また拙いながら私の考えたこともまとめたいなと思います。
本の概要
この本の内容については、出版社の公式サイトを見てください。
https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=850
パウロ・フレイレ著、三砂ちづる訳『被抑圧者の教育学 50周年記念版』(2018年、亜書房)
非人間化について
そんな中で、まず話題に上がったのは第1章の中にも多く出てくる「人間化」と「非人間化」という言葉についてです。本書の中では抑圧者の暴力は被抑圧者の人々のみならず、抑圧者自身をも非人間化していく。奪われた「人間化」の権利を取り戻す被抑圧者の戦いの中でのみ両者を解放する力を持つ。と表現されています。
「人間化」というとじゃあどんな人やったら人間と呼ばれる人やねん、、と思ってしまうのですが、そうではなく人権が守られる社会やその構造と考えてみることにすると、世の中に様々な「非人間化」があふれていることに気づきました。資本主義の社会や教育の中で、消費文化や人のモノ化は加速度的に進み、そこからもたらされる抑圧構造を多く含んだ社会が形成されているのかもしれません。
抑圧・被抑圧の両面性について
また、今の日本社会においてはだれしも抑圧者と被抑圧者の両面性を持ち合わしている(抑圧・被抑圧の種類や生きづらさ、度合は大きくばらつきがあるといううえでですが)のではないか。という話題も上がりました。つまり現代日本において、階級というものは明確には存在しないため抑圧者と被抑圧者という明確な区切りは存在せず、場面によってどちらにもなりうるのではないかと考えたということです。さらに、抑圧構造はより複雑にまた連鎖的に起こっているのではないかとも考えました。ある場面では抑圧を受けている人が、別の場面ではさらに立場の弱い人を抑圧している。ということは改めて見直してみるといたるところに見られるかと思います。
第1章を通して
章を通してふりかえると、我々の「くしろマイノリティ研究所」の活動の中では被抑圧の環境の中にいる人と出会うことも多く、わかるわかると頷きながら読み進めることができた第1章だったかなと思います。
個人のふりかえりとして
私個人のふりかえりとしては「偽りの寛容」という言葉にすごくドキッとしたし、今も引っ張り続けられているかなと思います。フレイレは本文中で「抑圧者」は「抑圧者」であると意識することが大切と述べているが、とても私に言われているのではないかという気分になります。私は今活動の中で社会や環境に抑圧されている人と話すこともありますし、来年度からは大学に行き勉強をする予定なので、調査研究の中などでより多くの被抑圧環境の中にいる人々と出会うかもしれません。そんな中で「支援者」として一定の方向に導いたり、大学という立場から抑圧構造を調査し理解しようとすることは、「抑圧者」として今の抑圧構造を維持していることを前提とした支援や理解でしかなく、フレイレの言う「偽りの寛容」そのものではないかと感じました。私の中にある「抑圧者」と向き合い、私に抑圧構造を変える力はないと意識しながら、それでもこの自分のありようを捨てて被抑圧者と共に歩むにはどう関わっていくのかを考え、行動したいなと気づき考えさせられる第1章になりました。
次回、第2章以降も我々の活動にも照らし合わせながら読み進めていけたらと思っています。
他の参加者の感想
他の参加者からも、この日の読み合わせの感想が届いたのでシェアします!
・第一章はフレイレさんの理念が詩的にエモーショナルに表現されていると私は思いました。その情熱に共感するとともに、国と時代が違うことでこのままの形では響きにくい部分があると思ったので、現代日本でも分かりやすいようにまず自分の中でかみ砕いていきたいです。
・「抑圧」の構造や「抑圧」に使われる価値観を抑圧される側も内面化してしまっているという話、抑圧する側に憧れてなろうとするという話は、わかるなぁと思った。一つのゲームのルールしか知らないで生きている人がほとんどだから、そのゲームからおりる方法がわからないってことなのかなぁと思いました。
・今まで見てきた人間は自分自身を含めて正にこうだったと共感できる内容ばかりでした。抑圧者を内面化してしまうという話では、この構造の最も難しく重要なものだと思います。昔の自分がこの本を読んだら「そんな悠長なこと言ってられない!」と暴れていたかもしれません。この本を読み終えた時「とてもわかる」「見たことある」「同じコト考えてた」以外の感想が果たして出てくるのでしょうか。