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「よいお手本」は抑圧の「お手本」パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』勉強会(第2回)

くしろマイノリティ研究所では、2025年の新しい試みとして、書籍を使った現地+オンラインでの勉強会を始めました。使用する本は、パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』、この事業の理念のもととなっている本の一つです。著者のパウロ・フレイレはブラジルの教育思想家で、経済的に困窮している人々や、人種や民族、性別などで差別されている人々などさまざまな形で社会から抑圧されている人々こそが、社会を変える力を持っていると考えて、この本を書いたのだそうです。
2月13日に実施した第2回では、全4章から成るこの本の第2章「『抑圧ツールとしての銀行型教育」の読み合わせをしながらみんなで議論を深めました。メンバーのえびによる報告です。

前回の勉強会レポートはこちら→「偽りの寛容」という言葉にドキッとした… パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』勉強会(第1回)

本の概要

この本の内容については、出版社の公式サイトを見てください。
https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=850

パウロ・フレイレ著、三砂ちづる訳『被抑圧者の教育学 50周年記念版』(2018年、亜書房)

「銀行型教育」と「問題提起型教育」

教育する者とされる者……いろいろなレベルの教育におけるこの関係性について考えるほど、そこにはとても重要な特徴があることがわかる。基本的に、教育する者はひたすら一方的に話すということである。

第2章本文より引用

上記の書き出しから察することができるとおり、「銀行型教育」の問題について書かれています。銀行型教育のしていることは「施し」で知識を持っているものから持っていないものへ与える、これ自体が抑圧のイデオロギーを広く知らしめるための基盤である、ということから始まり、創造と行動を抑止され欲求不満になった結果、力を取り戻そうとしてポピュリズムに繋がっていくとされています。

フレイレは、「問題提起型教育」を提唱しているのですが、それと銀行型との対比について書かれており、例えば

「銀行型教育」は……
生徒を容れるものにする(一方的に話す教師、黙って聞く生徒)
創造性を抑え込む
人を沈めるような状況にとどめておこうとする(抵抗させない、抑圧、支配への奉仕)
現実を「静的なもの」とする(変わらない、変化させるのではなく合わせるしかない)
人間性を否定する

「問題提起型教育」は……
コミュニケーションをとる(存在を必要とする)
本質的な省察を行う
現実に切り込むようなするどい批判を展開する(人の意識の表出を探求)
現実は変革の過程であるとする

などといったことが挙げられており、銀行型教育は「永続性」、問題提起型教育は「変化」に重きを置いています。

ダブルマイノリティは……

日本の教育はまさに現状、銀行型教育になっていて環境に馴染めない人は好奇心が強い人だったりしそうだという話が出ました。
問題提起型教育について、「そこにあるのは常に認識する主体」であるという文章があったのですが、マイノリティ経験があれば「認識する主体」になれるのでは?などの様々な意見も出ました。特にダブルマイノリティは「認識する主体」でしかないかもしれません。素直なことを口にできないので議論の機会がなるべくあることが重要、「認識する主体」として交流する場があったら……。実際細かな問題は多いですが「居場所づくり」というのは難しいですがとても大事なことのように思えます。

個人の感想

創造的なこと、時に新しいことをしたいのならすでにあるものについてよく知っておかなければいけません。なぜなら大抵のことは過去の偉人が既にやっているし、自分が頑張ってできたと思ったところで革新的でもなんでもなく「ただの焼き増し」「自己満足」で終わっているからです。
──という過去どこかで見聞きした話。何をするにしてもある程度の知識やら教養やら「心得」なるものはどうしても必要で、後の世代になればなるほど単純に量が増え要求されるレベルも引き上げられていく。そもそも学習は「真似る」ことが基本だからある程度は「ただ聞くだけ」のフェーズになるのは仕方ないのでは?ここまでフレイレさんに完全同意しかなかったのにもう解釈違いになってしまうのか……と思いながら読み始めた第2章でした。

  銀行型教育に関する記述には思いあたるものが沢山あったのにも関わらず、問題提起型のイメージがほぼ浮かんできませんでした。「ディベート」のようなものを一度想像しましたが、「誰かにとって都合のいい答え」を「感動的になるよう構成し直す」のを期待されていただけだったので、フレイレが繰り返し書いている「コミュニケーション」とはまったく違う「お約束」のものでしかなかったと思います。理解できなくても、納得いかなくても「再現さえできれば」正解。自然と湧き上がる「なぜ?」を一切許さず「なんでも察するのが正しい」感情労働のテンプレートばかりを押し付けられうんざりしていた学生時代を思い出しました。24時間誰かにずっと接待しているようなそんな感覚です。理解できないわけではありませんでした。むしろ理解したうえで「なぜ」が残るのです。時々口にしたこともあったのですが、返ってくるのは決まって嘲笑や人格否定です。答えになるどころかただ馬鹿にされはぐらかされ、時には「ばかにしやがって」と暴力を振るわれることもありました。「こうする」はどんな手を使ってでも押し付けるけど「なぜしない」の部分は説明しない(できない)。銀行型教育の仕組み、抑圧構造の内面化というのはこのようにして抑圧を再生産、強化していくのだと感覚的にも理解しています。(もちろん嫌味、嫌がらせで質問するというシーライオニング的なことと誤解される場合があると理解していますが、どう保険をかけてもフォローの準備をしてもほぼ無意味に終わるのでした。どうして……)

私がいままで経験してきたことがまさしく「抑圧ツールとしての銀行型教育」でしょう。副題にも頷けました。わざわざ抑圧構造を助長するシステムをずっと採用し続けているのです。「教育」と書かれているため「な~んか思想偏ったでっけぇ難しいこと言ってるわ~」と抵抗を感じるかもしれませんがとても身近な存在なので理解するだけならそうでもなさそうです。皆さんがいつも読んでる「空気」や「親にされた躾」であったりあらゆるところに存在します。絶対そこらへんにいるのにいざ対峙すると嫌な気持ちになる。
大人しく自分のいうことを聞いてくれる、自分の立場を脅かすことなくむしろ守ってくれる。もしもそんな存在があったら誰だって手放したくはないでしょう。あなたも「いい子」といってかわいがるのではないでしょうか?もしそんな存在が離れてしまうとしたら、回避するためにどんなことを考えるでしょうか?
 ……フレイレは「他の者に対して探求の主体として存在することを禁ずるようになれば、(どのような手段かは関係なく)それは暴力として始動する」とも書いています。よいとされてきた「お手本」が自らも相手も苦しめる抑圧そのものだなんて、ぞっとしませんか?

では「問題提起型教育」では具体的にどうしたらいいの?という内容は次回、第3章「対話性について──自由の実践としての教育の本質」で取り扱われるでしょう。次回も楽しみです。

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