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❝われわれの自然史の一環❞(ウィトゲンシュタイン)としての話すことについてと言語療法のこと



はじめに


探究Ⅰの第二章・話す主体のなかで著者(柄谷行人)は、ウィトゲンシュタインの言葉を引用しています。

❝動物は考えがないから、話さないのではない、たんに話さないのだ❞

探究Ⅰ

これはウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」、あるいは著者の他者性に関する議論であり、その前提を見ずに、この言葉を切り取ることは適切ではないかもしれません。

ただ、わたしは、人間は「たんに話す」だけという、この言葉から「話すとはなにか?」を考えたくなりました。たぶん言語とは何か?といった問いとそれへの答えはたくさんあると思います(哲学や言語学の本や論文から…あるいは自分達が何気なく交わしている会話の流れの中から…)。
でもわたしはこの「話し」についてこそ、すこし考えてみたいと思います。


話すこととは


❝動物は考えがないから、話さないのではない、たんに話さないのだ❞
❝逆にいえば、人間は考えがあるから話すのではなく、たんに話すのである❞

探究Ⅰ

それは、

❝飯を食ったり歩いたりするのと変わらない「自然史的」な問題❞

言葉と悲劇

であると著者は述べています。

そしてこれは我々が言語ゲームのなかにあるから、という話ではあると思うのですが……それはちょっと今回は横に置かせてください(言語ゲームあまりわかってない…)。

「たんに話すこと」が人間の自然史的な特徴であるとして、それはどのような能力を指すのか?
(※人間の「自然史的」を、人間に歴史的・生得的に備わっていて、人間から切り離すことができないようなものとして、わたしはイメージしています。)

ウィトゲンシュタインが❝われわれの自然史の一環❞として話すことと並置していたのが「歩くこと、食べること、飲むこと」でした。

「話すこと」とは、それらのどんな特徴から同じ自然史的な能力であるといえるのか?

字義通りの意味での歩行能力、咀嚼・嚥下能力とは異なると考えます。
「歩くこと」は人間にとっての(空間内を)移動する概念のことであり、「食べること、飲むこと」とは人間にとっては栄養や水分を(体内に)摂取する概念のことだと考えます。

よって「話すこと」についても、字義的な発話能力のことではなくて「言葉を用いて他者に伝達する」概念であると考えました。

「話し」には相手(他者)が欠かせません。
(たとえ目の前にはいないとしても。)

「話し」には文脈(場面)が成り立っています。
(沈黙が多く語る言葉に感じられるときのように。)

だけどそこには相手の理解とか、相手への意味内容の伝達は、必須ではないと思われます。
たしかに「話すこと」は、何かの「意味を伝えようとする」行為です。だけどその意味内容が相手に伝わるかどうかは、相手の返答や様子の変化など行動を待たねばなりません。それは「話し」の概念とは異なるもの━━おそらくは言語ゲームにおける問題━━であると思います。

「話すこと」とは相手(他者)があり、文脈や場面のあるところにおいて「伝えようとすること」が生じること、であると考えます。

そしてそれ(話すこと・伝えること)をなぜ人間は行うかといえば、それが❝われわれの自然史の一環❞だからであり、その特徴を捨てたり拒んだりすることはできず(そしておそらく肯定するものでもなく)、いかなるときもそれを想定する・想定できてしまうというような特徴であると考えます(たとえそれが話したくない・伝えたくない、というときでさえ…)。


話すことと話せないこと


言語療法の対象となる症状のなかには「言語能力の低下ないし喪失」で把握されるものがあります。あるいは話し言葉の症状と捉えられることがあります。

言語症状によって違和感や苦しみを持つ場合・状況を、この「自然史的な」特徴としての「話すこと」からみてみます。

それは(概念の上では)話せているし伝わっている、だけれども、それが概念上であるゆえに(行為、動作とのあいだの乖離として)表せられないことによって苦しみが生じていると考えることも、できるかもしれません。
また、話すことには相手と文脈を必要とするからこそ、そこでのズレによって「話せていない」と感じられるとも考えられます。

わたしはSLTAの「話す」成績の多くが正常値へと改善した患者さんに対して、回復したとみなしたことがありました。でも、ある(大多数の)部分においてこの見方は必ずしも適切だとは言えなかったな、といまでは思います。

相手としてのSTから、日常会話が問題なく可能であるようにみえるほどの回復だと感じても、もし患者さん自身が「ぜんぜん話せなくなってしまった」と感じることがあるならば、それはこの自然史的な能力における「話し」についての違和感やズレが生じていて、本人(話す主体)の望むところまで回復できているとは言えないかもしれないと思うからです。

そして、それゆえに言語機能の回復・向上や再獲得を目指した訓練を行う一方で、「話す主体」を前提した言語療法的な働きかけも大切であると思いました。

それは「話すこと」が生じている(話せている)が話せていないと実感している、という話す主体または会話システムの、違和感やズレを解消していくような働きかけ━━ある種の折り合いをつけること━━によって❝われわれの自然史の一環❞としての「話すこと」の能力の実現を最適化していけたら、と考えています。

まとめ

1.話すことは人間の自然史的な特徴・能力であり「言葉を用いて他者に伝達する」概念として、相手と文脈を必要とする

2.言語症状による苦悩は、話すことが実際の行為・動作として表せられないことによって生じ、また、話すことには相手と文脈を必要とするゆえにうまく話せていないと実感することもある

3.言語療法では言語機能の回復を図るだけではなく、話す主体と文脈との間のズレを、解消するための働きかけを意識することも重要かもしれない


本年もよろしくお願いいたします。

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