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なんでも読みます(5)プレゼン資料を読む

 暑い。夏だから暑いのは仕方ないとか、分かり切ったことは言いたくないくらい、暑い。私が子供の頃の夏の最高気温なんて、せいぜい30℃を越すくらいだった。なのに今はどうだ。38℃なんてコロナの発熱くらいあるじゃないか・・・。

 私は襟のない気楽な服を着て、エアコンの効いた喫茶店に徒歩で通い、「なんでも読みます」なんて気楽な稼業をやっているからまだいいものを、スーツを着て満員電車に詰め込まれ、地熱を抱いたまま朝を迎えた都心のビルに吸い込まれてゆくビジネスマンを思うと、気の毒でたまらなくなる。私にもそんな時代があったけれど、若かったからなんとかなっただけのことだ。

 そんなことを思い出したのは、今日のお客様がまさにそんなビジネスマンだったからだ。熱波で上気した男性は、クールビズのためかネクタイこそ締めていないが、長袖のワイシャツはさぞ暑いだろう。襟に汗が滲みそうだ。30代の始めくらいだろうか、一体何を読んでほしいのだろう。
 本題に入る前に、まずは一息ついて涼んでもらわなくては。最初の一口で、彼はアイスコーヒーを3分の1ほど飲み干した。

 ようやく話ができるほどの体温を取り戻し、彼はノートパソコンを開き、A4用紙にプリントアウトされた資料を渡した。
「このPowerPointのプレゼン資料に、ナレーションを付けてほしいんです。」
なるほど、そういうご依頼か。でも単なるプレゼンの音声なら、自分か社内の誰かの声ですみそうなものなのに。
「外部向けのプレゼンですか?」と尋ねると
「ええ、私にとって初めての、大きなコンペなんです。」
これは思った以上の大仕事だ。

 原稿はあるのだから、それを分かりやすくはっきりと読めばいいのだが、内容を理解しているかどうかは、やはり声に出てしまう。私はまず、プレゼン内容の説明を受けることにした。
 「サステナビリティを積極的に取り入れた経営のために、御社で何ができるか」「どのように外部発信し、社会的認知につなげるか」・・・うむむむ、いま流行りのSDGsか。言いたいことは分かるのだが、言葉が宙に浮いているようで、内容が全くつかめない。私が門外漢だということもあるのだろうが、説明の言葉が頭を通り抜けてゆく。
まずい。これはまずい。大いにまずい。

 資料に基づき一通り説明した後、「何かご質問はありますか?」と彼は尋ねた。どうしよう、分からないことだらけなのだけれど。いやそれ以前に、内容がほとんど頭に残らなかったのだけれど。正直に言うべきか、でもそれは失礼だし・・・。と様々な思いが頭の中に乱れ飛んでいたのを彼は察したのか、
「正直な感想をお聞かせいただけますか?どんなことでも結構です。プレゼンなので、まったく内容をよく理解していない相手にも、ちゃんと伝わらなくては意味がありませんので。」

 そうおっしゃるなら、正直な感想を述べさせていただこう。
「すみません、あのう、大変失礼なことを申し上げてしまうのですが、私の頭や知識では、正直なところ、内容がよく分かりませんでした。せっかくご説明いただいたのに、本当に申し訳ありません。でも、原稿通りにナレーションを付けることはできますので大丈夫です。」
 彼は黙って画面を見ていた。しまった、あまりにも失礼なことを言ってしまった。これで仕事はキャンセルだろうなと思ったとき、彼は意外な言葉を口にした。
「・・・ですよね。分かりませんよね、この資料。実のところ、僕だって分かっちゃいません。」

それでも仕事と思ってやっているんです。それが会社員ですから、とでもいうような言葉が続くかと思いきや、
「資料を作った人間が心の底から理解していないことを、資料にしてプレゼンしたところで、伝わるわけなどないですよね。」
 返す言葉が思いつかず、パソコンの脇に追いやられた、アイスコーヒーのグラスを見た。解けた氷水がグラスの半分くらいになっていた。彼の体もエアコンで十分冷えたことだろう。「ちょっと一息つきましょうか。」と彼に告げて個室を出た私は、マスターにホットコーヒー2つを注文した。

 彼は温かいコーヒーを一口飲み、「ああ、おいしいですね。」と軽く目を閉じた。そして堰を切ったように話し始めた。
「SDGsって、結局何なんでしょうね。どこの会社もSDGsに取り組んでいなければいけないような感じになってて、本気でやろうとしてるのか、やらないと乗り遅れているみたいだからやっているのか、よく分からないんですよね。」
「サステナビリティとか、持続可能性とか、結局、今のままでは地球の資源がなくなって、自分たちのビジネスも維持できないから、お互いにちょっと制限して、なんとか持ちこたえましょうよ、ってことですよね。」
「SDGsの考え方自体はこれからの世界に必要なものだと思いますが、言葉がね、日本語にきちんと訳されていないというか、伝わっていないというか、心に響かないんですよね。」

 彼は自分の考えを滔々と話した。うなずけることは多々あったが、言葉は差し挟まず、相槌を打つにとどめた。誰からも制限されることなく、できるだけ思いを吐いてほしかったのだ。
 思いの丈はすべて話せたのだろうか、彼は二口目のコーヒーを味わっている。
「今お話しして下さったようなことを、プレゼンでお話しすることは難しいのでしょうか?あなたの言葉で、あなたの考えを。」
「そうですね、それはちょっと難しいですね。私も会社員ですし。でも少し気持ちが変わりました。会社にいると、つい社内の常識だけで話をし、分かったような気になってしまう。でも外の世界に出ると、それは常識でもなんでもないということが、よく分かった気がします。全く違う分野の方に見ていただくのは、とても大事なことですね。原稿をもう少し自分の言葉に近づけて、分かりやすくすることはできるかもしれません。ちょっと見直してみたいと思います。」
「では、私のようなサルでも解るように、お願いします。」

 結局、元の原稿のナレーションを録音して納品することになり、もし原稿の手直しをすることができれば、そのナレーションも依頼してもらえることになった。ただ、上司の承認も必要だろうし、どうなるかは分からない。少しでも彼の言葉に近く、誰にでも分かりやすく語られたほうが、よく伝わるには違いないが、仕事を取れなければ意味はないし、理想ばかりを追いかけてもいられない。

 高い夏の太陽がようやく西に傾き、ほんのすこし日差しが弱まった。そんな時間帯は、夏の終わりの匂いがする。まだ始まったばかりの夏なのに。夏は短い。理想を持って闘う季節が人生の夏なのだとしたら、そんな夏もあっという間に終わりを迎える。暑いけれど、苦いけれど、どうか闘ってほしい。
 もしひと休みしたくなったら、どうぞお立ち寄り下さいな。

お望みのものを、なんでも読みますよ。
あなたのお越しを心からお待ちしています。

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