廃業危機の最中に継いだ家業。僕らは、カップで人の願いを叶える世界一になる〈前編〉|丸朝製陶所 松原圭士郎さん
こんにちは、美濃加茂茶舗です。
———成功したと言われている人たちにも、“飛ぶまでの三年"があったはず。
美濃加茂茶舗マガジン「三年、鳴かず飛ばず」は、ゲストの鳴かず飛ばず時代の考え方や過ごし方についてお聞きし、今を生きるヒントを見つけていく連載です。
今回のゲストは、美濃加茂茶舗のオリジナルプロダクトである100年使える湯のみCHAPTER[チャプター]を製造していただいている丸朝製陶所の代表 松原さんです。(前編・後編に分けてお届けします)
▲リモートワーク時代の100年使える湯のみ CHAPTER[チャプター]
世界の名だたるブランドのマグカップを製造している焼き物界の立役者 丸朝製陶所ですが、海外からの安価な陶磁器の台頭が影響し、一度危機的な経営状況を経験しています。
———僕が家業を継いだのは、会社が廃業しかけていた時期なんです。焼き物に興味も無かったしむしろ嫌いだった僕が、会社の仕組みを一から立て直して、やっと今に至ります。
松原圭士郎さん|丸朝製陶所 4代目社長/グローバルカップディレクター/コーヒーをこよなく愛す
焼き物の町 岐阜県多治見市滝呂町生まれ滝呂町育ち。製陶所の跡継ぎなら誰もが通う陶磁器専門の学校ではなく、普通大学へ進学。卒業後、修行のために別の製陶所で働いたのち、父が代表を務める「丸朝製陶所」へ転職。数年間工場長を経験し、四代目社長に就任。廃業の危機にあった家業を回復させ、現在は国内外問わず名だたるブランドカップのOEMを担っている。
聞き手は、美濃加茂茶舗の伊藤と松下です。
伊藤尚哉|美濃加茂茶舗 代表取締役/日本茶インストラクター/好きなお茶は東白川村の在来茶
1991年生まれ。24歳のときに急須で淹れる日本茶のおいしさに魅了され、2016年から名古屋の日本茶専門店・茶問屋に勤務。2018年に日本茶インストラクターの資格を取得(認定番号19-4318)したことを機に、お茶の淹れ方講座や和菓子とのペアリングイベントなどを企画。2019年「美濃加茂茶舗」を立ち上げ。
松下沙彩|美濃加茂茶舗 取締役/日本茶アドバイザー/好きなお茶は東白川村の萎凋煎茶
2007年より広告代理店にて国内企業のコミュニケーションプランニングに従事。2019年に独立し、美濃加茂茶舗立ち上げ期よりプロジェクトマネージャーとして参画。同年「日本茶アドバイザー」の資格取得。2020年伊藤と(株)茶淹を共同創業。なんでもやります。
生まれ育ったのは町ぐるみでカップをつくる滝呂町。でも焼き物は全然好きじゃなかった
松原さん:うちは1916年創業で今年で105年、僕は4代目です。祖父が代表だった頃は美濃が世界の中でも陶磁器の一大産地であり、ノウハウも設備面も他産地・他国に比べて優れていました。ほぼ貿易用の洋食器を作り、北米、中東などに卸していて、国内への出荷は少なかったです。父の代くらいから輸出量が減って販売先が国内にシフトしていき、ブライダルやギフト、ノベルティ用の製造が増えました。
祖父の代はひとつの案件の発注は数万個単位でした。17年前、僕が修行先から戻ってきた当初ですら、発注数3,000個以下の案件は受けていませんでした。それこそお茶とセット販売するための湯のみなどもたくさん作っていました。
ただ、ここ10年で業界全体が様変わりして。発注数が目に見えて減り、うちも生き残るために少しずつ小ロットに対応できるようにシフトしていったんです。
伊藤:松原さんは滝呂生まれ滝呂育ちですか?
松原さん:そうです。滝呂町って、カップ&ソーサーの街なんです、昔から。有田で磁器づくりが始まり、ほかの地に広めようとしたときに、古くから山茶碗(※)を作っていたこの地域の人たちの手先の器用さに目をつけたと聞いています。この人たちなら面倒で他がやりたがらない“取っ手を付ける作業“をできるのでは?と。
※山茶碗:平安時代末から室町時代に東海地方で生産された無釉薬の日用雑器
小さい町ですが、量産体制を作ったのは早かった。町ぐるみで分業をしたんです。ハンドルだけ作る、本体だけ作る、絵付けだけする、のように分業体制を整えて町全体で製造していました。身内もみんな陶磁器関係の仕事に就いていました。
カップ&ソーサーの町である滝呂町で僕のひいおじいさんが創業したので、必然的にカップをずっと作ってきたんですよね。
伊藤:もともと家業を継ぐ予定ではなかったんですよね?
松原さん:はい。陶磁器メーカーに生まれて、滝呂という陶磁器の町で育って、物心ついた頃から祖父にお前は家業を継げと言われてきました。いつかやらなきゃいけないのだろうなと思いながらも、「一生ここで過ごすのは絶対嫌だ。こんな町に居たくない」と思って、高校も名古屋に行ったり、少しでも町から離れようとしました。
でも結局、幼少期からの刷り込みのせいなのか、就職活動することなくこの業界に入ったんですよ。すぐ家に入るのではなく、最初は取引先のメーカーに修行しに行きました。
今から17年ぐらい前に家に戻ってきたんですけど、その時点でもまだ焼き物にはあまり興味が無かったんですよね。
当然ですけど、作家さんは焼き物が好きで作る。僕は全然そんなことなくて。でも、だいたいそうだと思うんですよ、家業を継ぐ人って。
伊藤:小さい頃から焼き物に触れてはいたんですよね?
松原さん:もちろん。毎日食器を見て、カップのあれこれを聞かされました。週末に百貨店に行っては食器売り場に連れて行かれてカップを見せられて「WEDGWOOD」がどうとか「Rosenthal」がどうとか言いながら、一時間くらい居るんですよ。
小さい頃からそんなことをずっと続けてきたので、逆に全く興味をもたなくなったのかもしれません。
松下:望まずとも知識は付いてしまいそうですね・・・
松原さん:人一倍、知識はありました。これは良い食器だな、これはあのブランドの食器だな、とわかるようになりました。外食に行くと、家族で出てきた食器の裏を見るんですよ。裏には通常、釉薬(※)がかかっていない部分があるので、そこを見て良し悪しを判断したり、裏印はどこのものだとか話すんです。
それが僕の生活の一部だったので、興味がなくても、食器とはどういうものかが自然と備わっていきましたね。
※釉薬:素焼(すやき)の陶磁器の表面に光沢を出し、また、液体のしみ込むのを防ぐのに用いるガラス質の粉末。うわぐすり。
伊藤:興味が出てきたきっかけは何だったんですか?
松原さん:最初はあまりやる気もないし好きなことでもなかったので、とにかく家業を「やらなくてはいけない」という義務感しかなかった。普通このあたりで家業を継ぐ人は、陶磁器意匠研究所、瀬戸窯業訓練校や京都の陶芸学校に行くんです。
僕は普通の大学に進学したので、卒業後に修行先メーカーに就職した時は、焼き物を”つくる”ことに関しては何も知らない状態でした。
でも、ゼロから始めたのは僕にとって良かったと思います。変な先入観やこだわりが無かったんです。焼き物はこうあるべきとか、自分のスタイルはこうだとか、そういったこだわりが全くなかったおかげで、何でも作りたいし何でも挑戦したいと思えたんですよね。
伊藤:やっていくうちに、だんだん面白さや魅力に気づいていったんですか?
松原さん:たぶん最初のきっかけは、家業廃業の危機を目の当たりにしたことです。急に修行先のメーカーから家に戻るよう言われて、事情を聞くと非常に経営状況が悪くて、もう廃業寸前でした。実はまだその時、僕は焼き物が好きじゃなかったから、「やめるならやめていいよ」って母に言ったのを今もはっきり覚えています。
でも「潰すわけにはいかない」と父がもう一度やり直すことを決めて、会社を一度締めました。従業員を全員解雇したんです。当時35人ほどが働いてくれていたのですが、8人だけ再雇用してリスタートしました。
焼き物に興味はなかったけど、あんなに栄えていたのに仕事が無くなって、両親の辛い思いも間近で感じて、その状況はかなり苦しかったんですよね。
両親が涙を流している姿を見て、僕が何とかしなければと思い、家業に戻ってからはずっと工場長として現場に入っていました。13年間くらいですかね。だから僕は、製造工程のほとんどのことは、自分でできるんですよ。
現場では、効率性の向上など、改善できることは全部改善していきました。夢中でやっているうちに、どんどん焼き物の世界に入り込んでいきました。知らないことを覚えるのも楽しいし、失敗を繰り返してできない理由を探っていくうちに焼き物が好きになってきたというか。
でも、正確には、焼き物が好きっていうよりは会社が好きになっていったって感じかな。僕は焼き物は今でもそんなに興味はないんですよ 笑。 カップは大好きですけど!!
特に、自分が手がけたものをお客様が喜んでくれるのがすごく嬉しかったです。そういう経験を重ねるうちにやりがいが出てきたように思います。ほんと、全然好きじゃなかったんですけどね。
家業に戻って10年間くらいは、とにかく現場を良くしようと”来る仕事”をこなしている状況でした。減ってはいたけれどある程度の仕事はあったので、製造メーカーとして、効率と歩留まりの改善や5S(※)などにひたすら取り組みましたよ。
※5S:整理、整頓、清掃、清潔、躾。トヨタ式の改善の基礎。
原点に帰り、カップ専門のOEMを極める
松下:立て直すにあたって、松原さんの中でどんな目標を設定していたんですか?
松原さん:うちは商社さんとの関係性が強く営業職はなかったので、下請けメーカーとして基本は来る仕事をやっていたんですね。だから仕事が減ってきた時に、「何でもやります」のスタンスで、様々な陶磁器商品を作っていた時期がありました。置物や灰皿、お皿でも何でも作れるんですよ、メーカーなので。
でも結局、蓋を開けてみたら、全然利益が無かった。忙しかったのに、会社としてはやっただけになってしまって、下手したら赤字なんてこともありました。
でも「これ、違うな」って。本来の丸朝製陶所の強みが活かせていないと気づいたんです。そこからカップ以外の案件を徐々に減らして、カップ&ソーサーで100年続けてきたメーカーだから、やっぱりそれでやってこうと決意しました。今から7、8年前の話かな。
その時立てた目標が「世界一のカップメーカーになる」です。ホームページも作り直して、新規のお客さんに向けては「うちはカップ専門のメーカーです」と伝えて、カップで世界一を目指そうと動き出しました。
そういう目標の解決策って、自社ブランドをつくって自社商品を販売し始める、になりがちじゃないですか。でも、うちは100年OEMでやってきたから、今さら自分たちのブランドの食器を作っても、絶対勝てっこない。ノリタケやウェッジウッドのような名だたるブランドが世界中にあるのに、勝てないですよ、100%。
で、どうやったら世界一になれるかって考えていたときに、たまたま深山さんの感謝祭に行く機会があって。絵付けの体験をして、深山さんの窯で焼いてもらって、ひとりのお客さんとしてカップを作りました。
出来上がったカップを受け取ったときに「自分でデザインしたカップっていいな」と思ったんです。自分が焼いたわけではなく絵を描いただけなんですけど、思いを込めたカップは他の人が焼いてくれたとしてもすごく良いものだと気付かされました。
その体験を経て、うちはOEMで"人のために作る”ことが一番いいのかなと思えたんですよね。自社商品を作るのではなく、カップを作りたいと思う誰かのために、その人に喜んでもらえる下請け向けメーカーでありたいなと。それがうちの生きる術だし、「お客さんのために作る世界一」にならなれると思ったんです。
松下:世界一ってすごい壮大だと思うんです。厳しい状況だったときに、あえて目標を世界一にするのは、すごい目標の立て方ですよね。なぜ日本一ではなく「世界一」にこだわったのでしょう?
松原さん:どんなに有名なブランドに卸しても、丸朝という名前が表に出ることはありません。だから日本で頑張っても、みんなに知ってもらえることも、「すごいね」と言ってもらえる可能性も低いと予想できました。
でも、日本人って逆輸入に弱いじゃないですか。例えばどんなに小さい賞でも、海外で賞を獲って認めてもらうと価値が出るというか。だから、世界から攻めようと思って。「丸朝」の名を売っていく舞台を世界にしたんです。
最初はニュージーランドのファブレスメーカー(※)とコラボでカップを作ったんです。そこからお客さんを世界に広げていきました。世界を目指さないと日本でも有名になれないんですよね。
※ファブレスメーカー:製品製造のための自社工場を持たない会社
釉薬を塗る作業をしながら、耳にはワイヤレスイヤホンを付けて取引先と打ち合わせ。無我夢中で過ごした工場長時代
松下:そのあたりの戦略は、おひとりで考えたんですか?
松原さん:はい。お金が無かったですから。いかにお金をかけずに自分でブランディングをして会社を成長させるかと考えた時に、SNSやメールしか思いつきませんでした。
海外のお店とのコラボなら宣伝にもなると考え、少しずつダイレクトメッセージを彼らに送ったりしていました。
伊藤:でも、相当大変ですよね。
松原さん:いやもうね、めちゃくちゃ大変でしたよ!今も大変ですけど 笑。寝る暇もなくて。18時まで現場に入って、事務仕事は全部現場が終わってからスタートなので、毎日夜中までかかって。本当に大変でした。現場にフルタイムで入りながらは今だったらできないですね。30歳過ぎぐらいのときかな。
伊藤:今の僕と同じです…
松原さん:現場も見ながら営業仕事もやっているので、本当に大変で。当時はイヤホンを付けて、現場仕事をしながら耳だけ打ち合わせしたり。日中は机に座って事務作業なんてできないですから。工場の中で釉薬を作りながら、「出荷は明日か明後日くらいですかね〜」って耳ではお客さんと打ち合わせしてましたよ。そんな生活が4年くらい続きましたかね。
伊藤・松下:えーーーーーー!
松原さん:こんな生活していたら絶対倒れると思って採用を考え始めて、今の工場長を1年ぐらいかかってやっと見つけました。陶器が好きで、ある程度知識があって、自分より若くて、やる気がある人が居ないか周りに声をかけていたら紹介してもらえました。今でも1日1時間ぐらいは現場入っていますが、その子が入ってくれたから、やっと今は現場から離れられてますね。
うちが国内営業をかけられない理由の一つに、産地商社さんとの関係性があります。今までお世話になってきた商社さんを飛ばして、お客さんを直接探してくるのはNGなんです。構造上。これは今の伝統産業みんなそうかもしれません。これを飛び越えて、やる決断をしているメーカーもあるけれど、ほとんどのメーカーはそれができないので、衰退していってしまう。商社さんに迷惑をかけずに営業をかける、その方法の一つが、営業先を海外にすることだったというのもありますね。
海外案件が増えていくことで自社を発信できるようになり、少しずつ日本のお客さんからも直接「丸朝」宛に問い合わせがくるようになりました。
松下:ちなみにとても大きな「シャトル窯」をお持ちですが、それはこの地域でも大規模な方なのですか?
松原さん:うちのシャトル窯は大きい方です。美濃地方では一番大きい部類(20立米)に入ります。
大きいメーカーさんはみんな「トンネル窯」で、24時間焼成で常に焼いてます。うちも以前はトンネル窯があったのですが、効率化を目指すため父親が手放す決断をしました。
以前設備していたトンネル窯は50mくらいの長さで、24時間火を止められないんです。一度火を落とすと立ち上げるまでに何日もかかる上にたくさんの燃料を使うんですね。だから常に焼き続ける必要があります。
世界の名だたるメーカーが潰れてしまったのも、規模を大きくしすぎて"窯の子守”ができなくなったのが理由のひとつだったりします。もともと大量生産の前提で窯を作っていたので、製造量が減ってきたときに対応できなくなってしまったんですね。
うちも、このままトンネル窯でやっていたら倒産してしまうということで、1991年に父が代表になった翌年にトンネル窯をやめて、今使っている「全自動ファイバーシャトルキルン」という窯を導入しました。そのあたり、父は先見の明があり切り替えが早かったので尊敬しています。美濃地方でも導入の早さは2、3番目じゃないかなと。
ただ、父も過去の栄光に囚われていたのは否めないですね。ずっと大量生産の仕事をやってきたから「3,000個以下の仕事は受けない」って一切やらなかったし、食器の色も白しかなかったんですよ。今うちで取り扱っている釉薬の色は100種類以上ありますが、ほんの7-8年前までは真っ白な食器しか作っていませんでした。
でも中国製の安くて白い食器が入ってきて、品質もどんどん上がってきて。僕はその状況を予想していたので、「海外製の食器の品質が上がっていけば、ほとんどの一般の人がそれでいいと感じるようになる。このまま白い食器だけ作っていてもいつか会社が傾く」と伝えましたがなかなか聞き入れてもらえませんでした。
伊藤:きっとそこにこだわりを持ってきたからこそ、なんですよね。
松原さん:そうですね。白磁でピンピンの透けるような食器を極めてきましたからね。他のはやれないって思いが強かったのはわかります。それでもやっぱり、切り替えていかないといけないときがありますからね。
松下:釉薬の技術やカラバリの開発などは松原さんが代表になられてから?
松原さん:代表になるタイミングはある程度決めていたので、その少し前から準備して増やしてきました。今では白い食器は減ってしまって、製造の6、7割は色物になっています。土も2種類しかなかったですが今は4種類で、美濃加茂茶舗さんの[チャプター]に使った土も、導入したのは3、4年前かな。
松下:[チャプターは]今でなければ作れなかったんですね。
松原さん:そうなんですよ。
松下:OEMの世界一に向けてニーズ応えるために、色や釉薬の幅を広げたんですか?
松原さん:それももちろんありますし、還元焼成(※)にこだわるためでもあります。うちの強みは完全に"磁器化”している点です。相見積もりも取られるし、いくつもメーカーがある中でなぜ選ばれるのかというと、還元焼成でしっかり焼き締めて、業務用でも使える品質で作っているからなんです。その点に共感してくれるお客さんには選ばれます。
※還元焼成:1,300℃以上の高温で24時間かけて焼き締めること。酸素を入れずに不純物を完全に焼き切ることで、汚れが付きにくく、吸水しない、質の高い製品になる。ただし高温で長時間の焼成に耐えられる良質な土を使う必要がある。
▼詳しくはこちらのnoteも御覧ください
価格面では雑貨屋さんで売っているような食器には勝てないです。同じ磁器ですが、酸化焼成というそんなに高くない温度で焼く方法で作られていて、燃料代・釉薬代が安くコストが抑えれている場合がほとんど。うちの方針として、そういった案件まで獲るのは違うと思っています。雰囲気は良くても、食洗機にも入れられないし電子レンジも使えない器は丸朝製陶所が作らなくてもいいかなって。
例えば料亭のような、土の雰囲気も残しつつ、業務用として使える強度・耐久性を兼ね備えた食器を求められる場合に、うちが使っている土と焼成方法はニーズがあるはずです。
〜後編へ続く〜
後編は、丸朝製陶所の特長を生かしたプロダクト[チャプター]開発のお話と、「MADE IN TAJIMI」に込めた思いについてお聞きします。
[文]美濃加茂茶舗 |松下沙彩( @saaya_matsushita )