とあるマトンの話④
羊飼いの仕事を始め1ヶ月ほど経った。
業務にも慣れてきて、時々1人で200頭の羊の世話をするほど、仕事も任されるようになってきた。羊一頭一頭の性格も分かるようになってきたし、羊達も僕の事を大体認識してくれるようになっている。
まぁ、ようやく羊飼いらしくなってきたかな。そんな自覚も芽生えてきている今日この頃だ。
さて、今回の話はとある老マトンの話だ。羊には呼称があり、産まれてから一年未満がラム、二年未満がホゲット、二年以上がマトンと、歳によって呼び方が変わっていく。
僕が働いてる牧場には大体200頭の羊がいて、その半分ほどがマトンだ。100頭近くいるマトンの中、雄は10頭もいない。ほぼほぼ、雌のマトンである。
これには牧場ならではの理由がある。この牧場で生産されている羊肉が高く評価されている理由は、「血統」にある。羊にも様々な種類があり、その種のみの純血な血筋を持つ個体は希少である。違う品種の血筋が混じった「雑種」は一頭もおらず、特に雄の血統は仔羊の生産においてとても重要な要素を持つ。
今回の話で登場するのは雄のマトンだ。多くの雄は仔羊の段階で出荷される事が多く、成体まで牧場に残り続けるのは厳選された血筋の個体しかいない。
この羊の耳には142番の耳標がついていた。だがスタッフは誰もこの羊を番号で呼ぶことはなく、いわゆる「あだ名」がついていた。
その名は「タマ」。
まるで猫のような名前だが、これには大きな理由がある。
タマには、他の羊と明らかに異なる大きな身体的特徴があった。それは、睾丸が異常なほど腫れ上がっている事だ。これは割と重大な問題で、恐らく何かしら内臓に問題がある病気なのだろう。羊飼いとして、羊の身体に起こる異常は毎日チェックする必要がある。だから毎日僕たちは、こいつのタマをよく観察してたってわけだ。情報共有するに連れ、自然と143番の呼び方は「タマ」となっていく。
「今日、タマあんまり元気なかったですね」
「お昼にはタマ、餌しっかり食べてましたよ」
まぁ、こんな感じってわけ。
タマの身体に起こっている異常はかなり辛そうなものだった。大きく腫れ上がった箇所は彼の歩行にも影響が出始め、まともに走ることはだんだん難しくなっていった。なんて言ったって走る度に後ろ脚が腫れ上がった睾丸に当たる。その衝撃は脚を歩める度に彼の身体が左右に大きく揺れるほどだ。どう見たって正常な状態じゃない。病気持ちの個体なのだ。
正直、見てて辛いものがあるが、彼は紛れもなくこの牧場の生産面において大きな役目を果たしている存在だ。多くの子孫を残し、それが結果として我々羊飼いの生活を支えている。
そんなタマは、日にちが経つに連れ段々体調が優れなくなっていく。誰もがタマの命はもう長くないと、分かっていた。というか、最初から分かりきっていた。それほど、タマの身体に起こっている異常は深刻なものなんだ。
これは、最後まで懸命に生きようとしたタマの記録である。
このノートは一人前の羊飼いを目指す見習いの日記。
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今日も良い一日を。めぇ。