ルイジ・ノーノ作曲「力と光の波のように」(1971-72年作曲、イタリア)
イタリアという国は左翼思想が背景にある前衛芸術表現が多い。文学・映画で言えばパゾリーニ、ロックで言えばアレア、そしてクラシック音楽(現代音楽)で言えば今回取り上げるルイジ・ノーノ(Luigi Nono)だろう。
この曲"Como una ola de fuerza y luz(力と光の波のように)"はコミュニストであったノーノと親しい関係であったチリの革命家、ルシアノ・クルツの死を悼むレクイエムである。とは言ってもモーツァルトやフォーレのような抒情性はなく、ジャーマン・ロックのような(決してイタリアン・ロックの様ではない)音響的音楽である。ブルガリアの声楽家であるスラヴカ・タスコ―ヴァによるソプラノらしかぬ「ルシアーノ!」と呼び掛ける声には恐怖すら感じる。
どんな国にも、どんな時代にも背景のない芸術表現というものはない。ロシア・アヴァンギャルドもまたマヤコフスキー(文学)、メイエルホリド(演劇)、マレーヴィチ(美術)といった共産主義に加担した表現者たちが存在した。イタリアもそうで、左翼的前衛芸術はロシア・アヴァンギャルドのように「革命的」でなければならない。政治的な背景がノーノにも、ロシア・アヴァンギャルドにもあった。
少し話がずれるのだが、クラシック音楽を愛聴しているリスナーは表現された音楽そのものよりも「背景」を聴く傾向を持った者が他の音楽愛好家よりも多いのでは?と私は常日頃から邪推している。誰とは明言しないが、目の見えない日本人ピアニスト、同じく目の見えない声楽家、耳が聞こえない「現代日本のベートーベン(本来はベートーヴェンと綴るのが正しいのだが、彼は詐欺師なのでこう綴らせていただく)」。クラシック音楽というのは趣味として愛聴するのにかなり訓練を要する音楽ジャンルだ。しかし「目が見えない奇跡のピアニスト」「耳の聞こえない日本のベートーベン」といった何か表現者が抱える特異な「背景」がなければ彼ら彼女らはクラシックの世界に入り込めない(ないしは「入りこみにくい」)のではないか?目が見えない、耳が聞こえないといった「背景」ばかりに囚われ、純粋に音楽を聴くことができていないのではないか?もちろん、彼らの技術・表現力にケチをつけるわけではないのだけれども。「ベートーベン」にいっぱいくわされたのも、彼が聾であった(と自称していた)ことばかりに目がいき、肝心の音楽を批判的精神で聴いていなかったからかもしれない――というのは言い過ぎか。
「背景」は二の次にして、まずは「音楽」を聴こう。マイナス、政治。マイナス、個人的な事情。すると本当に良質な音楽が立ち現れる。