子供から教えられた生き方/他人の期待に応えるのをやめてみた
自分らしく生きるということについて考えてみた。
自分の生き方とは一体どういうことだろう。
自分の人生を生きることとわがままで自分本意な生き方とは違う。
人間の一生ははかない。
ちょっと油断してるといつの間にか「あの頃は良かった」「若い頃に戻りたい」そして「何故こんな人生を送ってしまったのだろう」という取り返しのつかない後悔をしながら死を迎えることとなる。
そうならない為に毎日毎日習慣の中にやるべきことを組み入れ、日々淡々と修行していく。
そして気がついたら、とてつもない力が付いていることに驚くだろう。
私の場合は、まず他人の期待に応えることをやめてみた。
幼い頃からいつも他人の期待に応えてきたから。それが私の生きる術だと思いこんできた。
他人のいうことを聞いて他人が喜ぶことをして、他人がやってほしいことを先回りしてやってきた。
そのお陰で、私の周りに私のことを必要とし、私のことが大好きだと言う人がたくさんいた。
何か困ったことがあれば、私のことを思い出してくれた。
それが思いやりのある生き方だと信じていた。
生きるとは、どれだけ多くの人の手助けをできたかで豊かな人生となると思っていた。
その生き方がおかしいと気がついたのは、我が子が小学生の頃だった。
「他人を思いやれる人が素晴らしい」とかねがね子供に伝えていたし、それがどういうことが見せてきた。
子供というものは、本当に素直で健気に私のいう「思いやり」を実行していた。いつもお友達の為になることを一生懸命やろうと実践していた。
だから私と同じ、息子の周りには常にお友達がたくさんいた。
息子は自分のおやつをいつも皆に分けてあげた。お友達に自分がやった宿題を見せて写させてあげ、漫画を買ったら自分が読むより先にお友達に読ませてあげた。
ゲーム機を買えば、いつもお友達に貸してあげ、お友達の係の仕事を代わってやってあげ、自分の自転車をお友達に貸してあげ、自分は自転車の横を小走りで走ってついて行っていた。
息子はいつもお友達に感謝され必要とされ、優しいと称賛されていた。
泳ぎたくなくてもお友達が泳ぎに行きたいと言えば一緒にプールに行き、映画に一緒に行きたいと誘われればあまり興味のない映画であっても一緒に観に行っていた。
幼い頃はそれ程気にしていなかった。というか、親として優しい思いやりのある我が子が誇らしかった。しかし年齢が上がるとともに、だんだん息子が一体何をやりたいのか分からなくなってきた。自分の意思がない息子が歯痒く苛立たしくなってきた。
そして他ならず本人がだんだん元気がなくなってきた。「自分が何をしたいのかが分からない」と言い始めた。
私の生き方や固定観念が息子の生きる気力を失わせてしまったのだ。
私は自分の生き方が根底から間違っていたことに気がついた。
正確には、息子から教えられたのだ。
他人の期待にばかり応える為に生まれてきたわけではないと。
いつも他人の期待ばかり応えて生きてきた私たち親子。
他人の期待に応える為に生まれてきたわけではない。
私は自分の人生を生きる為に生まれてきたのだ。
自分の頭で考え、自分がやりたいことだけやっていこう!そう心に決めた。
今でも断ることが苦手で罪悪感でいっぱいになるが、自分に正直に生きる為に嫌だと思ったら断るようにしている。
勇気を振り絞って断る練習をしている。
元気がなかった息子も、少しずつ自分を取り戻している。
息子よ、ごめん。未熟な母が逸版大切なことを教えてあげられなくて。
でも今こうして気がつけて良かった。息子よ、ありがとう。
あなたのお陰で大切なことに気がついたよ。