「だが、情熱はある」 ”努力の天才”は親の呪いを解けるのか 山里編:すごいねー
若林の父は、幼少期の彼に言い続ける「死ぬぞ」
山里の母は、ことあるごとに彼に言う「すごいねー」
私たちが行動を起こそうとした時、どこからともなく聞こえる親の声。
無視したいのに、大事な選択を迫られるときこそ、引っ張られる。
「交流分析」では、そんな親からの言外の呪いを「禁止令」、理想化された願いを「ドライバー」といいます。
「だが、情熱はある」を題材に、親からの呪いの言葉について考える第2弾です。
1.山里の呪縛「すごいねー」
2004年山里亮太はカッコよかった
第7話、ついに南海キャンディーズのM1決勝が放送されました。
2004年のM1をリアルで見ていた身としては、感無量。
南キャンは本当に新しく面白く愛らしかった。
しずちゃんを決して怒らない(disらない)、山里亮太のツッコミには、えらく感動し、衝撃を受けました。
女芸人に対して、ブスとかデブとかへちゃむくれとか言わんでも、ちゃんと面白くする技があったんだ、と。
2004年、山里亮太の登場は、間違いなくめっちゃカッコ良かった!
が、
かくの如く、妬み嫉み嫉妬怒りを燃料としてネタが出来上がっていたとは。
嫉妬の源泉「すごいねー」の呪い
ヒコロヒー演じる山里のお母さんの口癖、
それは、「すごいねー」
いやもう、3番目の「すごいねー」のあたりになると、母の目の奥は冷ややかです。
もう子どもではない亮太も、さすがに母の言葉を額面通りに受け止めておらず、
ひどくバツが悪そう。
幼少時から、「すごいねー」をこれでもかと浴びた山里は、
「すごいね〜と言われる存在でいなければならない」と、
いつの間にやら思い込んでいた様子。
俺は天才だ。
天才でいなければならない。
Amazonのベストセラー1位になってます
買っちゃいました
2.交流分析の「ドライバー」
「〜せよ」の呪い
呪いの言葉「若林編」では、父の言葉「死ぬぞ」と「禁止令」について書きました。
「禁止令」は、親から無意識のうちに発せられている、理不尽で否定的なメッセージをいいます。
対して、山里が言われた「すごいねー」は「ドライバー」と言われるものに似ています。
禁止令が「〜するな」という呪いだったのに対して、ドライバーは「〜せよ」という呪いです。
ドライバーとは、親のモットーやしつけ、教訓のようなもので、「〇〇しなければならないよ」と言葉ではっきりと伝えられます。
ドライバーの例は、以下の通り。
一見すると、とても良い教訓ではあるのです。
でも、この「〜するべき」が、過度に子どもの心に刻まれるとどうなるか。
どこまで頑張っても努力しても、なんだか満たされず、まだ足りない気がしてしまう。
自分が満足できたかよりも、誰かが「いいね」と言ってくれたかどうかが評価の基準になるので、評価されるまで頑張ることをやめられない。
だから、常に緊張していて、気を抜くことも、手を抜くこともできない。
結果、心やからだがクタクタになってしまいます。
「すごいねー」は、「人を喜ばせろ」や「完全であれ」に似ています。
褒め言葉も状況や文脈と離れたところで使われたとき、
「あらねばならない」という親の期待をのせた"呪い"にへんげすることもあるのです。
みなさんには、例示した5つのドライバーに心当たりはありませんか?
「努力の天才」は呪いを解くか
呪いを解くには、自ら呪いに気づき、解呪する必要があります。
「すごい」にこしたことはないけれど、いつも「すごく」あるなんてとうてい無理。
そして、その必要もない、と。
呪いに気づいた山里は、第6話で天才をあきらめます。
妬み嫉み嫉妬怒りを燃料に、分析→実行→反省→分析を繰り返し、ついにはM1二位に登り詰めました。
相方のしずちゃんいわく、
「努力の天才」
努力によって得られた結果は、まぎれもなく山里の「実力」。
M1の舞台を終えて、お母さんは「すごいねー」と笑顔で手を叩きます。
お母さんは、本当はどんな亮太だっていつも認めていたのだと思います。
呪縛を作っているのは、自分。
さて、類まれなる努力の天才は、己の力で勝ち得た結果を認め、心から自分を賛辞し、認めることができるのか。
その先に、呪縛からの真の解放がある気がします。
悪いクセ、出ませんように。
呪いの言葉:若林編はこちら
呪いにかかりそうもない春日についてはこちら
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