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フランス哲学者「肉食は反倫理的行為だ」…菜食料理の有無を聞くだけで逆ギレされる日本への苦言
(オリジナル記事はみんかぶマガジンで2022年9月3日に配信したものです)
ベジタリアン・ヴィーガンが抱く、生命を食することに対する根本的嫌悪感
なにかきっかけがあったのだとは思うが、かいもくわからない。物心ついてから私は肉や魚(貝や甲殻類も含む)が食べられない。
もちろん幼少時、私は「ベジタリアン」や「菜食主義者」などという言葉を知る由もない。ただ子供心ながらに、「生物」をざっくり「植物」と「動物」にわけると、自分が食べられないものは後者であるということ、ただし後者が殺されることなく産出するもの、つまり乳や卵は(好んで摂取はしないが)とりあえず食べられるということ、この二つを反省的に知った。
どうして食べられないのかというと、かわいそうだ、というよりむしろ「死体」だという観念が先にたってしまい気持ち悪くて口に入れられない。目の前にある肉や魚が、もともとは骨や肉や血や内臓を備えて動き回っていたもので、それを自分の体内に入れると考えると、それだけでおぞましくて吐き気がする。
そんなわけだから、小学校で私は給食を取るのを拒否した。給食費を支払わないで、野菜だけの弁当をもっていくことにしたのだ。「アレルギー」という言い訳すら認められない時代に、当然、「食の多様性」が考慮されるはずもない。担任の教師には嫌味を何度も言われ、クラスの他の生徒たちからは異端視された。しかしそんなことが私を「雑食」へ向かわせるインセンティヴになるほど、肉や魚を食することに対する私の生理的嫌悪感は軽くはなかった。それどころか反対に、この経験が、食という人間のもっとも基本的な生理的志向(原文ママ)をまでも徹底的に管理する「学校教育」という制度に対する決定的な不信感を私に植え付けた。私は小学生にしてすでにまじめに学校へ行かなくなった。
中学生くらいになると、私のような食の志向性をもつ人間が「ベジタリアン」や「菜食主義者」と呼ばれることを知った。
フランスではベジタリアン・ヴィーガンの存在はいたって普通。社会に浸透している
このような私の食の志向性は現在にいたるまで変わっていない。したがって、生活するのは楽ではない。外食するときは、ベジタリアン仕様の品があるかどうか、なければ特別に作れるかどうか問い合わせなければならない。
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