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〜VHS映画10選〜

別に借りるつもりがなくても渋谷に来たらついつい寄ってしまうSHIBUYA TSUTAYA。ズラーっとレア物が並んだ棚を眺めるだけでスーッと心が落ち着いてしまう。好きな監督の初期作が永遠に盤にならなかったり、廃盤で今や手が出せないくらいになってたり、名作とされていながらいまいちマイナーで盤にならなかったり、権利問題で盤にならなかったり...と痒いところに手が届かないことがよくある。ぶっちゃけ自分はこのためにVHSデッキを中古で買ったくらい。

このままダラダラと書いてても仕方ないので今回はVHSで観て良かった映画10本を紹介していこうと思います。




1: アウト・オブ・ブルー (1980)

デニス・ホッパー (アメリカ)

前作「ラストムービー」という難解極まりないアートフィルムを撮り終えてデニス・ホッパーはハリウッドと決別。さらに酒とドラッグのせいもあり70年代は映画界から追放されたが、80年作の本作で再び監督として返り咲く。

パンクを愛する少女の物語でタイトルもニール・ヤングの曲から取られているように音楽好きにはオススメできる。家族の問題とやり切れない環境の中で反骨精神を剥き出しにする負の映画であるが、ホッパーがこれまでにも披露したアヴァンギャルドと爆発力が凝縮されながら非常に観やすく親切な形に仕上がっている。パンクを体現した少女の一挙手一投足に怒りが秘められ、キャッチーな爽快感を味わうことができ、アメリカン・ニューシネマのどうしようもなさも決して忘れていない幻の一本。自暴自棄の美学が炸裂する。


2: アブノーマル (1993)

ロルフ・デ・ヒーア (オーストラリア・イタリア)

ヴェネチア国際映画祭で審査員特別賞を受賞しているが相当こじらせたカルト作。VHSしか存在していないがそろそろシネマートあたりが拾ってくれないだろうか。「アングスト」や「ザ・バニシング」「クリーン、シェーブン」らの曰く付きVHS群に埋もれた危険でこちらの想像を軽々と超えるぶっ飛び映画である。

まず主人公に一切の常識というものが備わっておらず、歪んだ家庭環境、外は毒ガスが充満してるから出てはいけないという教え、息子を道具として扱う真のモンスターペアレントからの脱出からこの映画は始まる。彼は地下の密室で35年間外の世界を知らずに生きてきた。世の中とか社会とか隔絶されて育ってきた男がひょんなことから全てが新しい日常に放たれる。当然言葉もロクに喋れない。そんな状況からどうやって彼は生きていくのか。最初から最後までまともじゃない。あんな展開であんな結末はありえない。全く先が読めない問題作。


3: 白い風船 (1995)

ジャファル・パナヒ (イラン)

イラン映画の醍醐味はキアロスタミの映画でも証明されているように、なぜここまでシンプルな一本道のストーリーなのに大きな感動を覚えるかという見守るような視点にあると思う。それらの映画の特徴として、厳しく劣悪な大人たちの態度、そして純粋無垢な子ども視点の対比が非常に優れているといえる。

主人公の少女はただ金魚が欲しいだけ。お金ももらっていざ買いに行くのだが、次々と試練が現れそう簡単にはいかない。子どもの頃はなにか上手くいかないことがあると、すぐ目の前の大人に頼ろうとする。勇気を振り絞って訊いてみるのだがそんな時に限って大人は素っ気なく今は相手にしている暇はないという風に振る舞う。誰しもが身近で遠い過去に覚えがあるのではないだろうか。この作品に限らずイランの国民性を映画を通して観ると忘れかけていた感覚を取り戻したような発見があるはず。特にアッバス・キアロスタミが関わった作品群はそうした些細なことに目を向けた優しさがある。ちなみに彼は本作でも脚本を担当している。


4: セレブレーション (1998)

トマス・ヴィンターベア (デンマーク)

デンマークには"ドグマ95"という独自の映画制作におけるルールがある。この運動は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」などで知られるラース・フォン・トリアーらによって始められ、撮影方法や編集方法があらかじめ定められ、回想シーンの禁止など変わった縛りがある。この映画は記念すべきドグマ95の一作目にあたる。

この年代のトリアーとともに活動していたせいか例に漏れずこの映画も倫理観ゼロである。ハッキリ言ってめちゃくちゃ性格悪い映画。人が大勢集まるパーティーの中で起きちゃいけないことばかり起きる。これこそ非日常の悪夢がもたらすえげつない精神攻撃で、まるで見世物小屋でも見ているようなサディズムを観客に植え付ける。起きてることは最悪でしかないが窃視に近い感覚を与えひたすらに楽しくなってくるから恐ろしい。映画の中の人物だから何してもいいを地で行くおぞましい実験作。不条理モノが好きな人にとってはたまらない代物になっているし、人間の意地悪さを煮詰めたカオスを目撃したい人に是非ともオススメする。


5: ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌 (1992)

須田裕美子・芝山努 (日本)

幼い頃、誰もが通ったであろうちびまる子ちゃん。あのいつまでも平和でひたすらに日常なまる子の日々を辿る感覚は相変わらずの安心感があるがしっかりと泣ける素晴らしい映画。どれくらい泣けるかっていうとクレヨンしんちゃんのオトナ帝国くらいのポテンシャルがある。ではそんな名作がなぜ円盤化されないのか。

この作品がVHSのまま時が止まっている理由は楽曲の問題にある。紹介画像にサイケなおばちゃんがいるが、これは劇中に流れる"買い物ブギ"のシーンである。笠置シヅ子が歌う昭和に親しまれた歌謡曲であるが、今となっては差別用語とも取れるワードがバンバン出る。まあこれは時代が違うから仕方ない。ブルーハーツの終わらない歌みたいな感じ。しかしながらこのシーンの異様さからもわかるようにカルトでドラッギーな試みがちびまる子ちゃんで実践されているのが非常に面白い。ほぼ曲の解説だけになってしまったが、まる子があの頃の純粋な感情に戻してくれる感動作なので機会があれば是非観てほしい。最後に念押しでマジで泣ける。


6: ドクトル・マブゼ (1922)

フリッツ・ラング (ドイツ)

今から100年前の映画なので当然サイレント、しかも4時間をゆうに超える長尺なので取っ付きづらさはあるかもしれないがかなり面白くてビビった記憶がある。「メトロポリス」も「スピオーネ」も面白かったしフリッツ・ラングの映画は時代を感じさせないドライブ感がある。

本作は2部構成をとる壮大なスケールでドクトル・マブゼが催眠術を駆使しながらさまざまな犯罪を引き起こす。人を操って一切の証拠を残さず自分は逃げ続けるため、誰も犯人がわからず捜査は難航する。あらゆる場面で行われる華麗な手捌きに翻弄される追走劇で、後半になるにつれて不測の事態が次々に起きて目が離せなくなる。これだけ飽きずに観れるのは巧みなシーンの切り替えと繰り返される緻密な駆け引き、そしてこの時代だからこそ創意工夫された演出にあると思う。完全版は5時間にも及ぶらしく流石にそのバージョンを観ることは叶わなかったが、後の犯罪映画の原点となる映画史的にも重要な位置にいる作品。


7: パンと植木鉢 (1996)

モフセン・マフマルバフ (イラン・フランス)

マフマルバフはキアロスタミとも並んで語られるイランを代表する監督。先ほどの子供からの視点とは異なるイラン映画のもう一つの特徴として、フィクションとノンフィクションのシームレスな横断があり、この映画は特にそれが際立つ大胆さに満ちた神秘性がある。

ドキュメンタリー的フィクションとも形容できるパーソナルな内容でマフマルバフの実体験が映し出されている。リアリティがこちらが予想もしない形で不意に目の前に現れる瞬間は世の中の数多の映画からはかけ離れた異質さがあり、その映像の魔力を一目拝むだけでも大きな価値がある映画だ。こうして書くと少々難解にも思えるが、二人の人物がたった一つの目的のために交差するシンプルなものでしっかりとユーモアで味付けもされている。スリリング、コミカル、多幸感と色んな表情を覗かせる。ちなみにこのマフマルバフ自身の実体験というのは17歳の頃に警官を刺して逮捕されたというショッキングなものなのだが、どうしてここまでポップな仕上がりになるのか不思議でならない。


8: ママと娼婦 (1973)

ジャン・ユスターシュ (フランス)

早く逝きすぎたポスト・ヌーヴェル・ヴァーグ作家ジャン・ユスターシュの2本しかない長編映画の一つでありフランス映画の特異点。今年のカンヌ国際映画祭で4Kリマスター上映されたので一刻も早くBlu-ray化してほしい。怠惰なテクストの連なりがただの会話が、時間と空間を捻じ曲げる。

3時間40分にも及ぶ超長尺な会話劇で第一印象といえば本当にただダラダラとしているだけ、一人の男と二人の女がベッドを共有し、愛についてナルシシズム全開で語っているだけ。しかし共感もできない会話を見せられているだけなのになぜこんなに延々と釘付けになってしまうのか、正直なところ私自身まだ理解できてない部分が多々ある。この映画における"言葉"の存在は強大で膨張すると無自覚のうちに背徳的領域に引きずり込む。異常だとしてもタブーだとしても彼らにとっては些細なことでしかないのかもしれない。主演のジャン=ピエール・レオが言うように主人公は俳優でも女優でもなく言葉だというのが全て。繰り返し観てさらなる理解を深めるのが個人的な課題。


9: 女鹿 (1968)

クロード・シャブロル (フランス・イタリア)

クロード・シャブロルのエロティックサスペンスの傑作。三角関係というワードから想起する泥沼な関係性とは一線を画した相関図。気まぐれに移り変わっていき、なぜどうしてと謎を残しながら拡大していく奇妙な依存関係はまるでゲームのような中毒性がある。

人との出会い、関係性の深め方、もたらされる感情の全てが異質で普遍的な狂気が潜伏しているようなザワザワ感がたまらなく面白い。やってることが本当に支離滅裂。同時代のスタイリッシュなフランス映画とは違い、まさしく一寸先は闇を体現した含みのある要素が満載で整合性を無視したエンターテイメントがある。置いていかれているようで絶妙に食らいつける塩梅が上手く、貴族階級が脆くセンチメンタルだということを案じさせる。サスペンスなので事件も起きるわけだが、元々のキャラの動機が破綻しているため一筋縄ではいかない起承転結に惹かれる。


10: リトアニアへの旅の追憶 (1972)

ジョナス・メカス (アメリカ)

ビデオダイアリーの質感を残す、知らない景色でありながらノスタルジーを喚起させる淡さが素晴らしく美しい。ストーリーは二の次で実験映画だがそんなことを一切感じさせないフレンドリーなインディペンデント映画の至宝。理想の家族の姿が映された解放と喜びがダイレクトに伝わってくる。

例えば古びた映像で在りし日の家族を目にしたことがあるかもしれない。記録として封じ込められた輝きが確かにそこにあり、その都度懐かしむ感情は温かさに包まれている。過去に固執するのがどうしたって人間だし、未来が不安なのは誰だってそうだと思うが、一日一日がいかに可能性を残しているかを思い出させてくれる。この作品の受動的で懐が果てしなく広い尊さが愛おしくなる。これだけはザラザラとした質感で、VHSで観ることに大きな意義を感じた追体験であった。




これらの作品は全てSHIBUYA TSUTAYAにあるので機会があればオススメする。気軽にとはいかないかもしれないけど追加料金でビデオデッキも借りれるので。

あと何かオススメのVHS映画があったら教えてください!

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